2030年代の日本の学校教育を枠づける次期学習指導要領の改定に向けた作業が進められています。昨日の新聞に、文部科学省から諮問されて、改定の方向性を検討中の中央教育審議会(中教審)の議論を紹介する記事がありました。文科省と中教審が児童・生徒の成績評価をめぐる「難問」に挑んでいるというのですが、その「難問」とは、一言でいえば、子どものやる気(態度)を成績評価にどう組み入れるか、ということのようです。記事の引用です(下線太字は当方が施したもの)
やる気に「○」? 文科省が思い描く成績評価の未来像とは | 毎日新聞
学校の成績は現在、①知識・技能②思考・判断・表現③主体的に学習に取り組む態度(主体的な態度)――の三つの観点を、それぞれA~Cの3段階で評価する仕組みとなっている。
これらの評価から総合的に「評定」が判断され、一般的には小学校(3年生以上)なら1~3、中学・高校なら1~5といった数字で示される。例えば、ある教科で評価がAAAになれば評定は「5」、AABなら「4」や「3」などとなる。
評定は児童・生徒ごとに作成される指導要録に記載され、学校種を超えて引き継がれる。内申点を決める指標にもなり、進学先の選択にも影響する。
形式的な「勤勉さ」と批判も
ただ、従来の三つの観点のうち、特に「主体的な態度」については客観的な評価基準が乏しいといった課題があった。
文科省は評価にあたって重視する項目として「粘り強さ」と、目標を設定して課題を振り返る「自己調整」の2点を示していたが、教員や学校、自治体によって重視する度合いが異なったり、挙手の回数や提出物の締め切りを守れるかどうかなど形式的な「勤勉さ」の評価にとどまったりしているとの批判があった。また、保護者から評価の根拠を問われた際に説明できるようにするため教員が評価の材料集めに疲弊する、といった指摘もあった。
代わりに浮上した案が、評価は「知識・技能」と「思考・判断・表現」の二つに絞り、「主体的な態度」は「学びに向かう力」として整理し直す方法だ。「学びに向かう力」は「思考・判断・表現」を評価する際に考慮する。
文科省は3月30日、中教審の特別部会でこの案を提示した。
「学びに向かう力」はどう判断するのか。具体的にはまず、「学びに向かう力」を子どもたちが発揮した場合に想定される行動や様子を国が教科ごとにモデルとして示す。これまでは学校や教員に委ねられていた評価基準を国がある程度明確にし、客観性を担保した上で教員の負担を減らすためだ。
文科省はこれを「教師が見取るための具体的な児童・生徒の姿(見取る姿)」と名付けた。
例えば、中学校数学での「見取る姿」として「知的好奇心や目的意識をもって問題を見いだし、数学を活用しようとしている」「他者と数学的論拠に基づいて協働し、問題解決を進めようとしている」「問題発見・解決の過程を振り返って評価・改善しようとしている」といった項目を挙げている。…………
当初は、①知識・技能や②思考・判断・表現など、筆記試験で評価可能なものが成績評価の基本でした。これに後から③主体的態度が加えられた経緯があります。成績評価では客観性が担保できないだけに、担当教員の主観的評価程度の位置づけに過ぎなかった生徒の「態度」を、正当な評価に組み入れろと文科省に言われて、学校の先生は戸惑いました。客観的にと言われても、授業中に何回挙手したかとか、期限を守って提出物を全て出せたかとか、ノートをきれいに書けているかとか、あげくには私語などせずに授業中真面目に座って学習していたかとか……、そうした「材料」でもって生徒の「主体的態度」を「客観的に!」評価して成績をつけていたわけです。
こんな苦し紛れの成績評価であっても、生徒にすれば内申点や進学先に響くわけですから、重大問題です。試験の点数とは別個の評価系があるとすれば、何とか高評価を得ようとするわけで、意味がよくわからなくてもとりあえず手を挙げるとか、提出物の期限厳守と言われれば、他人のものを写して締め切りに間に合わせるとか、そうした事例は、小生も学校で働いていた時分に、嫌というほど見ました。テストで点数がよければいいとは申しませんが、そもそも子どもの学習態度のよしあしを成績化すべきものなのだろうか、という根本的な疑念が消えません。
次期学習指導要領では、③の主体的態度(学習態度)は②に組み入れられる方向のようですが、評価の基準は、教員の負担軽減を理由に(最近よく使う口実です)、国が定めるというのですから、先生方には変に枠がはめられてやりづらくなるおそれもあります。たとえば、中学校・数学の場合に掲げられた国の評価基準に従えば(まだ抽象的でよくわかりませんが)、数学の授業時間に宝くじの当たる確率に興味があるので計算してみたい、なんて言いだす子どもがいたら、これは国定の「知的好奇心をもって問題解決にあたろうとする」主体的学習態度を示しているのですから、相応に評価しないといけないでしょう(笑)。しかも、それが評価されることが他の子どもの間にも伝われば、隣の教室ではロトシックスの当たる確率はどうなるのかと言い出す子どもが出るなど、「飛び火」していくかもしれません(笑)。こういう場合、オリジナルは評価するけど模倣はダメだと言い切れるのかどうか。
記事の中にも、現役教員の懸念が紹介されていました。
……過去に受け持ったクラスには暗記が得意で大人も書けないような漢字を覚えている子や、ある分野に突出して関心を寄せている子もいた。一方で、そうした子は内気だったり、口下手で他人との協業が苦手だったりするケースもあったという。
「こうした場合は『学びに向かう力』はどのように評価されるのか。子どもがどう成長するかは十人十色だが、国に『こんなふうに成長してほしい』と期待する人物像があらかじめ決められるようで、違和感がある」……
子どもの学習態度は個人の問題というだけでなく、経験上、教える先生の人間性や教え方、教材の示し方などで一変する可能性があります。となると、教員の教え方、興味の持たせ方など、授業内容も問われなければなりません。子どもに主体性を求めるのであれば、教員の授業にだって主体性が示されていなければならないはずです。ところが、そちらは取り上げてしまう。教員に負担がかかるからという理由で(にかこつけて)、文科省(国)が評価基準を決めてあげますと言う。そうではなく、教員が主体的に授業と生徒にエネルギーを注げるように時間を確保するのが、多くの教員が望んでいる教員の負担軽減のあり方のはずです。
それで思い出しましたが、映画『小学校 それは小さな社会』の監督・山崎エマさんは、「6歳ぐらいの子どもは世界のどこでも同じようだけれど、12歳の日本人は欧米の子どもと違う。……教育で人は作られるし、日本の公教育は社会・集団との協調性を育てる役割を担っている。日本の教育に対する概念は、他の国々とかなり異なっている。これは間違いないです」と述べていました。この映画の英語のタイトルは “The Making of a Japanese”(日本人の作られ方)というそうです。
「日本の普通」に世界が驚いた: 映画『小学校~それは小さな社会~』を制作した山崎エマ監督 | nippon.com
小生には、映画を見ていて、教師然としようと無理をしている(ように見えた)一人の先生の姿が痛々しく感じられました。子どもに「主体的態度」を求めるのであれば、教員にだって同じことが、いや、おそらくそれ以上の「主体性」が求められます。子どもと教員(おとな)が学校という場で、本来の主体性を伸長させることなく、「主体的態度」の重視というこの国特有の態度主義を醸成してきたのだと思いました。
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