前から気になっていましたが、世の風潮(の一部)に「批判は悪口」と解する向きがあるそうです。昨日高市首相が先の衆院選で当選した自民党議員全員に祝儀でカタログギフトを贈っていたことが発覚し、国会の代表質問でも立憲の田名部幹事長が釈明を求めていましたが、これは総額で1,000万円近くの金を費やした一種の「贈賄工作」に見えます。違法性はないと言われても、政治資金の使い方としておかしいのではないかという意見=批判が出てきて当然だと思うのですが、どうなのか。
「野党側には、問題追及で国会審議が停滞したと見られれば、批判の矛先が自分たちに向く懸念もあり、2026年度予算案を審議する予算委員会での追及には慎重な姿勢も目立った」
「首相周辺も「そんなに世間が反応するとは思えない」……野党側が国会で追及を強めれば「質問時間が無駄になる。カタログギフトばかり質問すれば、これまで以上に支持を失うのではないか」と強気の姿勢を見せた」
1000万円、首相のカタログギフトは「コチョウランと同じ」と強気 | 毎日新聞
と新聞記事にあるように、国会で批判や追及のトーンが上がる感じはしません。もちろん世論次第とはいえ、これで高市首相を批判すれば、世間から悪口ととられてマイナスだと野党議員は萎縮しているわけです。
これは昨日付のラジオ・文化放送「武田砂鉄 ラジオマガジン」の記事ですが、組織開発専門家(?)の勅使川原真衣(てしがわら まい)さんの話(分析)は非常に興味深かったです。ちょっと引用させてください。
「批判は悪口」論は、じつは権力側の秩序を守る“新手の論破術”だった 批判を封じるほど、職場と社会で「陰口」だけが静かに増えていく [1/2] | ログミーBusiness
勅使川原真衣氏(以下、勅使川原):批判を悪口と呼び始めたことが気になっています。武田さんも昨日の「ゴールデンラジオ」でお話しされていたと思います。少し違う着眼点からお話ししてみたいと思います。
自民大勝、中道大敗など総括がいろいろ出ています。その中で気になるのは、中道がいかに自民を批判しても、大人が悪口を言っているようにしか聞こえなかった論です。
武田砂鉄氏(以下、武田):そういうものが、いろいろなところで出てきていますね。
勅使川原:産経新聞の記事は有名かと思います。「他人の悪口ばかり聞きたくない」が今回の選挙結果。「批判型野党とオールドメディアの終焉」という記事です。野党は批判するものなんですけどね。
そういう記事が出たり、日本テレビ系列の番組で、山里亮太(南海キャンディーズ)さんらが、似たような趣旨のことを「他責」や「揚げ足取り」という言い方で語っていました。
批判は直ちに後ろ向きで、他責で人の話ばかりしている。要するにこれは悪口だという構図のようです。いかがでしょうか。
武田:世の中は政治の話だけでなく、いろいろなものに対して批判して、それを検証して改善してきた歴史の積み重ねがあります。それによっていろいろなものの生活は改善してきたんですけどね。
勅使川原:そう思います。批判を悪口と呼ぶことで、私たちが得るものと失うものがあるはずです。今日は悪口と陰口の違いも整理しながら、空気を解剖してみます。
社会学の観点から見ると、悪口という言葉は非常に興味深いラベリングです。悪口と言った瞬間に、その発言の内容の検討や構造の分析、事実の確認は切り離されます。「それは悪口だよね」というのは新手の論破です。議論が強制終了してしまいます。
批判を悪口と呼ぶことで守られるものの一つは、今、権力を持っている側にとっての快適さや秩序にほかなりません。お気づきのとおり「悪口ばかりで嫌だね論」は、内容ではなく態度を問題にしています。私は勝手に「人としてどうなの論法」と呼んでいます。
武田:人としてどうなの論法。
勅使川原:人としてどうなの系の話は、最近多い気がします。政治まで人格化して語っていいのでしょうか。これは政治の話だけではないのがポイントです。日本社会を広く覆っている価値観だと言えます。
少し昔の話をすると、学校はどうでしたか。日本の学校で「いい子」はどういう子だったか、私なりに整理してみます。
まずは文句を言わない子です。文句を言うとダメです。小学校でよくあったのが「いいですか」と聞かれて「いいです」と言う。本当は「嫌です」でも「嫌です」はダメなのです。空気を読み周りに合わせるのが大事でした。
あとは途中で「負け筋だな」とか「違うな」と思っても、やめることはあまりできませんでした。「最後までやり抜く子」が教育目標になっているケースも多いです。
ここで言ういい子の基準は、自分の頭で考えたかや心がどう動いたかではありません。周りとの足並みがまず優先されます。波風立てずに円滑にことを進めることが正義とされている。これが日本の「態度主義」と呼ばれるものです。
武田:態度主義。
勅使川原:態度は評価の第一義になっています。学校での望ましい行動や規範は、その後の社会も支配しています。
政策の矛盾や権力の問題点、制度の欠陥を批判すると、直ちに悪口ばかりで感じの悪い人と言われませんか。それで一蹴されると不当な構造を問えません。
指摘すると「あの人感じ悪いよね」と言われるのなら、やはり控えてしまいます。止められない決定が積み重なっていくのが最大の懸念です。これは失うものだと思っています。
ちなみに思考実験をしてみます。批判が直ちに悪口と呼ばれてしまうとどうなるでしょうか。
武田:しなくなりますよね、批判を。
勅使川原:しなくなります。でもモヤモヤは消えないわけです。多くの人はどうするか。表では言わないけれど、陰で言うことになるのではないでしょうか。
武田:陰で言う。
勅使川原:悪口論が乱用されると、悪口は一見すると減るはずですが、陰口は増えるはずです。
武田:別のところで吐き出す。
勅使川原:別のところで絶対に吐き出す必要があります。職場で言えば、会議では表だった反対意見は誰も言わない。喫煙所やSNSの裏垢はどうでしょうか。言いたい放題やっているケースもあります。会社側が上司との「1on1」という制度を用意していても、最近は心理的安全性を確保しろとも言われます。
ネガティブなフィードバックをしたらやる気を削いでしまうのではないか。ハラスメントと言われるのではないかと考えて、1on1でも何も言わない。「最近、髪切った?」という話をして終わってしまうケースもあります。
何が起きるかというと、軌道修正の機会を失ってしまうのです。双方にとって「言わぬが花」状態でズレたままになります。陰で、軌道修正が必要な方は評判を落としていきます。
武田:それは最悪ですね。
勅使川原:最悪ですよね。批判を悪口と見なす社会は、陰口を増やすことになります。その陰口がどれくらい健全な社会の醸成に役立つかは一考に値すると思います。
武田:一見、すごく良い言葉やポジティブな言葉が溢れているけれども、剥がしたところや裏側ではジメジメしている。そうであれば、きちんと言うべきことはおかしいと表で言えと。
勅使川原:表のほうが健全だと思います。物事は変わっていかないので、裏で言っても。……
<以下略>
こうした「批判の無効化」により政治や社会の健全性が失われていくことは非常に心配です。これでは批判どころか質問もできません。たとえば、公約が実現できなかったらどうしますかとの質問に、「批判」のにおいを覚えると、「意地悪やなあ」とスカす人間が総理大臣をしているわけで、「歯車」はさらに進んでいる感じがします。
最後に勅使河原さんの言葉を引用してまとめてみます。本ブログも委縮(自己検閲)しないでやっていきたいものです。
勅使川原:このラジオだけでも萎縮しないでやっていきたいなと思いますね。批判を悪口と呼び始めた社会が何を守っているのか。今一度お伝えすると、多数派や体制側の秩序です。権力者側の円滑さは守っているでしょう。その代わりに手放しているもの。これはまさに修正する力だと思います。
あるいは声なき声に耳を傾けることも、なかなかしにくいです。でもこれが、本来の政治の役割なんですよね。民主主義はあえて考えると、最初から面倒です。時間もかかりますし遅いです。先ほどの揚げ足ではありませんが、感じが悪く一瞬見えることも多々あるのが民主主義なのです。
なぜならば、すべからく私たちは違うからです。違いのある人というのは優劣の差じゃありません。まずもって違って生まれてきていますので。そういう違いのある人同士が一緒に生きるというのは、あまり美しくありません。美しい多様性は幻想的な話であって、楽ではありません。
揉めることもたくさんあります。揉めちゃいけないとなると、何もできなくなってしまいます。「悪口でしょう」と一蹴するのではなく、ぜひそこから先の議論を。
具体的には「どの違いを理不尽だと今感じているんですか」ということをちゃんと問う。あるいは「どの点について、あなた様は一方的に割りを食っているような気分になっているんですか」というのは、福祉を考える上では基本的な質問になると思います。
わからない表現であれば「と言うと?すみません、ちょっとわからなかったんですけど」と返せる。このほうがよっぽど健全な社会ではないでしょうか。
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