ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』

 去年ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家ハン・ガンさんの著作をいくつか読んでいて、部分的に何か胸に落ちないというか、いまひとつしっくりこないところもあったので、本屋の棚にこの本のタイトルを見たとき、読めば何かしらわかるような気がしたのです。それは間違ってなかったようには思うのですが。
 ハン・ガンさんに限った話ではないのでしょうが、韓国の作家たちの表現の奥には、何かかさぶたのようにはりついて剥がれない、平均的な日本の読者にはおそらくよくわからないものがある感じがします。斎藤さんのこの著書を読んで改めてそう思いました。それは一言で言えば、戦争、なかでも朝鮮戦争とその残影、端的に言って死と向き合う姿勢、というか視線でしょうか。斎藤さんによれば、それは韓国文学の「背骨」です。もちろん個々の作品の背景は多層的でしょうけれど、韓国の文学は戦争と無縁ではない。もっと言えば、戦争の意味をとらえることなく、韓国の国民感情や個々の心情を推し量ることは難しいのではないかと思います。

 朝鮮戦争についていえば、今も休戦中で、70年以上を経過した現在、形の上では終わっていない。したがって、何かの偶発事をきっかけに南北が再び交戦状態に陥り、人々が戦火に巻き込まれる可能性は残っているわけで、朝鮮の人々はこの非常事態を頭の片隅に入れて日常を送っていることになります。しかも、対立する相手(敵)は元々は「同胞」です。隣国の人間が普通に考えるような平和な日常とはズレがあると思います。それがどう認識され、あるいはされていないのか、日本の人々は考え併せてみてもよいのではないかと思いました。

 朝鮮が南北に分かれたのは、第二次大戦末期、日本の植民地統治下にあった朝鮮半島の北側をソ連、南側を米国が占領したことに起因します。でも、よく考えると、同じような分割占領が日本にあったとしてもおかしくなかったのです(実際に同じ敗戦国のドイツは米英仏ソ4か国に分割占領されました)。日本の場合は結果的に米国の単独占領となりましたが、米英中ソ4か国による分割占領案があったようです。斎藤さんの著書の249頁にその地図があります(元図は五百旗頭真氏による)。それによれば、北海道と東北はソ連、関東・中部・近畿を米国、四国を中国(中華民国)、中国地方と九州を英国が分割統治し、東京を(ベルリンのように)4か国で共同管理することになっています。もちろん、歴史上は分割占領案が表舞台に出ることはありませんでしたが、検討くらいはされたようです。斎藤さんは、当時の弁士の日記の一部を紹介しています。

 1945年8月15日、弁士、俳優、作家であった徳川夢声は日記にこう書いた。

 「そりゃそうと、杉並区は何処の軍が占領するのかな? 噂によると重慶蒋介石の国民政府の意)軍がやってきやがるというが、どうも重慶はイヤだねえ」
 「まったく、重慶はイヤだね。いっそもうアメリカ軍にしてもらいたいよ」
と私も言った。いっそ、毛唐なら毛唐で諦めがつく。
               ――徳川夢声夢声戦争日記抄―敗戦の記』中公文庫

 日本がもし朝鮮半島と同様に分割されていたら、どういうことになったのか。斎藤さんはこう書いています。

日本がもし分割されていたら
 例えば、小津安二郎黒澤明が拉致されて不在になったところから出発する戦後日本映画史、というものを想像してみれば、その深刻さに想像がつくのではないだろうか。
 同じことが1945年の日本の文学界で起きたと想像してみたらどうだろう。仮に、フォッサマグナ上に分割ラインが引かれ、日本が東西に分かれ、東はソ連支配下、西は米国支配下に置かれたとする。
 そして、個々人の思想傾向だけでなく、一時的な居住状況や仕事の関係、家族関係、交友関係、その他さまざまな偶然、さらに拉致という暴力が重なって、例えば志賀直哉高村光太郎中野重治坂口安吾太宰治宮本百合子原民喜と堀田善衞が東で筆を折ったり殺されたりし、井伏鱒二三好達治谷崎潤一郎川端康成林芙美子江戸川乱歩大岡昇平が西に残るというような事態、そして分割後何十年も、過去のものを含め、反対側にいる作家の作品を一切読むことができなくなるといった状況をだ。

                        (斎藤、同書、247-248頁)

 「思考実験」というほどではないにしても、想像力をめぐらせれば、普通に見えてくることはあると思います。韓国文学の奥底にあるものを想像したり考えたりしながら、自身の貧粗な認識についてつくづく思いました。これは「日本的」なのかどうか、と。

[増補新版 イースト・プレス刊、2025年1月、363頁]



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