昨日元首相の村山富市さんが亡くなりました。2025年10月中旬、自民党が維新と連立茶番劇を演じるさ中、皮肉な(というか「天の声」のような)訃報に思えます。
1994年、自社さきがけの三党連立政権のトップに座ったとはいっても、実質は政権復帰に執着した自民党に担がれただけで、下野していた自民党はこれをきっかけに息を吹き返し、社会党は党内対立と分岐が進んで凋落していくことになります。所信表明で「自衛隊は合憲、日米安保は堅持」と叫んで、議場がどっと沸いたシーンは今でも鮮烈な記憶です。
「実直さ」というのは、表向きはともかく実際の政治の世界ではあまり評価されないかもしれませんが、村山さんの場合、比較上、歴代の日本の総理大臣の中でもかなり実直な方だと受け止めています。それに、ナポリのサミットかなんかで料理の油だかジュースだかが合わずに腹をこわして、その後の首脳会談ができなくなったというのも、日本国の為政者としてはともかく、人間的なエピソードとしては笑えます。
その意味では、いくつか回顧や評伝を見ましたが、今朝の毎日新聞の小畑英介記者の記事が一番人間・村山富市を感じさせる内容でした。以下、引用です。
「なろうと思ったことは一度も…」 村山富市さんを首相にさせた人柄 | 毎日新聞
「巡り合わせの人生」。政治家としての歩みを振り返る時、17日に101歳で亡くなった元首相、村山富市さんが好んで使った言葉だ。その道は首相という政権トップの座に続いていたが、旧社会党の衰退や自民党の延命にもつながった。村山さんの胸中には苦い味も残ったはずだが、その巡り合わせへの感情は表に出さなかった。
大分県職員労組の専従職員から31歳で大分市議に初当選。その後は県議、衆院議員と活動の場を移していったが、出てくる言葉は「自分から『なりたい』『なろう』と思ったことは一度もなかったな」。政界引退後、大分市内の村山さんの自宅で取材をした時、「野心もなく国のトップになれるものだろうか」と不思議な気持ちがした。
何度か自宅を訪ねるうちに、腹に落ちることがあった。金大中・元韓国大統領の死去(2009年)などに関連して取材を申し込むと、村山さんは「わしなんかに聞かんでもよかろう」と一度断る。「いや、そう言わずに」と食い下がると、もう断らない。自民党幹部の信頼も厚く、その気さくさ、人の良さが首相にまつりあげた大きな理由だろう。
首相就任から旧社会党は自衛隊容認への転換などで大きく揺れた。「裏切られた」「自民党に利用された」と強い失望を口にする関係者がいる一方で、現実路線は「党の過渡期に重なった」とみる人もいる。村山さんは「連立に入った以上、反対ばかりは言えない」との立場だったが、決断する葛藤もあったはずだ。09年8月の総選挙で政権が交代したのを見届けた時も「政権は代わったが、政治が変わるかどうか」と気にしていた。
阪神大震災、地下鉄サリン事件、戦後処理――。社会の激変にも直面した。危機管理などを巡り批判も浴びたが「巡り合わせをよくするか、悪くするかは人次第。逃げずに乗り越えないといけないんだと思うね」。労働運動から政治を志し、党の栄光から衰退を見続けた政治家に、鯨岡兵輔・元衆院副議長(故人)は「豪眉(ごうび)決断」の言葉を贈っている。
引退後、散歩中に市民から気軽に声をかけられる姿は「元首相」より「トンちゃん」と呼ぶ方がふさわしい気がした。ただ、引退後も社民党の看板として候補者の応援に駆け回り、国会のテレビ中継にチャンネルを合わせ続けた姿は、最後まで政治家だった。
村山さんが総理時代に発した「戦後50年談話」は今でも歴代政権の歴史認識(表明)をいい意味で縛り続けていると思います。評論家の佐高信さんは、当時を振り返り「(村山さんは)談話の閣議決定に応じない閣僚は罷免する姿勢を示すなど相当な覚悟だった」と言っています。せっかくの「80年談話」を私的な談話に貶められた石破さんと自民党のアベ信奉者に聞かせてやりたい話です。
「閣僚罷免の相当な覚悟」 佐高信さんが振り返る「村山談話」の意義 | 毎日新聞
ヴェトナム建国の父ホーチミンは人々から親しみを込めて「ホーおじさん(バク・ホーBác Hồ / 伯胡)」と呼ばれているようです。「トンちゃん」も同じでしょう。
どうか安らかにお眠りください。合掌。
