おとといのブログで「極左」って何? とか、政治的に中立だったら、「極左」も「極右」も同じように批判すべきなどと書きましたが、立場が違うなと思った人と突っ込んだ議論をするのは、正直なところ、なかなか厳しいなと感じることがしばしばです。でも、たまには「向こう」の言っていることにも「なるほど」と思うことがありますし、逆もまたしかりで、前に書いたかもしれませんが、〇〇人の連中はマナーは守らないし、人に迷惑はかけるし、あんな悪い連中はとっとと(日本から)出て行ってほしいというようなことを言う「隣人」に、日本人でも悪いことをするのはいるんだから、〇〇人だからみんな悪いってこともないよ、という話をしたら、次からは「日本人にも悪いのがいるけどさ」という「枕詞」が必ずつくようになりました(笑)。互いに一定の「信頼感」があれば、こういうことも(たまには)あるのでしょうけれど、赤の他人同士ではやはり難しい面が多々あります。バッシングされた経験など、嫌な思いをしたことがあればますますそうなるでしょう。
雑誌『地平』・11月号に学生さん同士の座談会の記事がありましたが、司会のジャーナリストは、自分は対話に全幅の信頼をおいていなくて、対話不能の絶望感にとらわれることの方が多いとややあきらめ気味ですが、話を振られた学生さんたちの方はそうでは(そうでも)ありません。名前を伏せて、少し引用させてもらうと……。
K 対話ができる場合と、できない場合があると思っています。相手が大きな権力を持っている、権力差がある、あるいは、その場の雰囲気を重視しなければいけないマナーや、抑圧があるときは難しくなりますよね。
私は22歳で年齢も比較的若いとされているし、経験上、相手が異性の場合には余計に、ハランスメントが起きやすかった。そこにいる人を尊重しない発言を耳にしたとき、それにビシッと異議を申し立てられなくて、すごく後悔したことが何回かあります。逆に、知り合いとの会話でひどい差別発言が飛び出して、とっさに意見を述べたら、相手が頑なになって場が紛糾したことも一度ありました。……
S 同級生同士でも、沖縄に偏見をもっている人はたくさんいますが、私もいったんは対話しようと頑張ります。……根本的な考え方に違いがあるとしても、あくまで友だちとしてどう思っているのかっていう立場できくと、気持ちを言ってくれることもあります。本当に外国人が悪いと思っているのか、自分の生活が苦しいのか。そういうことをちゃんと掘り下げてみて、その人たちに届く答えを私も説明していくことは大事だなと思っています。あくまで理想なので、しんどいことのほうが多いですけどね。
I 私は、対話というか、特にSNS上でのディベートはあんまり意味がないと思っています。いまSさんがおっしゃっていた、単に相手を打ち負かすことだけを目的にしているような相手に時間を割くよりは、現実に弱い人間を踏み潰している社会に対して、具体的に抗っていきたい。
生活保護についてバッシングする人を一人ひとり論破するよりも、私は、生活保護を窓口に受けに行って追い返されてしまった人と、一人でも多くつながりたい。一緒にもう一度福祉事務所の窓口まで行って、生活保護を受けられるようにする。そういうことのほうが重要かなって。
(「カジュアルな差別への加担 後編」、『地平』・2025年11月号、94-95頁)
そして、最後にこうも言っています。率直に言って、頼もしかったし、陳腐な言い方ですが、元気をもらいました。
I いまって、年下の学生を見ていても、一緒に時間をかけて本を読んだり、社会を変えたいと思って顔をつき合わせて論争したりっていう、この座談会の場みたいなものが本当に少ないと思う。何かを求めている、議論したいと感じている人とどんどんつながっていきたいですね。
S 東京に来て、運動が孤立していると感じました。
私は専門が憲法なので、参政党の憲法批判もしたのですが、全部ひとりでやったんです。ほかの憲法学者の方々も、みなさん、個別で取り組んでいた。でも、もっと早い段階で、いろんな研究者が一緒になって、みんなの知識を合わせていけたら、もっと大きな抵抗になると思うんです。
K そういう言論空間をつくってきたのが、学生の生存権を保障する学生寮のようなところですよね。60年代の全国的な学園紛争以来、文科省による管理強化や大学の予算確保を目的とした自治寮潰しで、そうした「コモン」的な環境がどんどんなくなっているし、立て看やビラ配りへの規制も行われています。この動きと連動して、ポピュリズムがはびこっていくということも実感します。
この状況で、学生たちが声を上げることをどれだけ怖がっているか。すぐに個人情報と結びつけられるいま、私も怖いです。東大の学費値上げ検討のリークで学生たちが反対の声を上げたとき、SNSで「こんなことしたら就職できないよ」とコメントする人もいた。活動していても、就活の時に不利になるんじゃないかって社会の抑圧を内面化したり、顔や名前を出すのを怖がったりと、悩んでしまう学生は多いと思います。私たち学生が一斉に声を上げれば変わるってわかっているから、社会は抑圧しているんです。
もともと反戦、核兵器反対の活動をしていた人が、就活でうまくいきすぎて財閥系企業に就職し、軍事・サイバーに興味を持つ、みたいなこともあったみたいです。企業に勤めていると、資本主義や企業の論理のなかで、思った以上にその企業の倫理観に、もともとの自分の考えすら浸食されていく。生きる糧を得るために言動すら変えてしまわざるをえないこともある。でも、本当にそれでいいのか。
私は、これまでの活動を全部話して、それでいまの勤めている会社や大手の企業から内定をもらえました。まだ学生でもありますし、活動を続けています。こうした経験を、就活に響くかどうか不安に思っている仲間にも伝えていますし、インタビューで答えたこともあります。もちろん、みんなが自分の全部を賭けられるとは思っていません。でも、企業の論理に則る生き方だけではなく、私みたいな生き方も、それ以外の生き方も、たくさんあるとアピールすることは必要だと思っています。どうすれば分断されることなく、社会の抑圧や理不尽に抗いながら、誰かを踏みつけずに生きていけるか。そのことをいつも考えています。
司会 大きなメディアの報道になると、社会は分断されていて、困った顔や悲しい顔をしながら考え込むような雰囲気を求められたりしますが、今日のみなさんの話は、とても前向きな印象を受けました。
分断に見えるものは、自然に生まれるのではなくて、「ヤツら」が勝手に強いるものですから。そんなものは認めない、背負ってやるもんかというのでいいと思います。
(同上、96-97頁)
