ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

河野龍太郎『日本経済の死角』

 エコノミストの藻谷浩介さんが以前新聞の書評で「絶賛」していた新書を読んでみました。
今週の本棚:藻谷浩介・評 『日本経済の死角 収奪的システムを解き明かす』=河野龍太郎・著 | 毎日新聞

 確かに「なるほど」と納得・共感する箇所ばかりです。特にここ四半世紀、日本の時間当たり生産性は3割上昇しているのに、時間当たり賃金が横ばいなのは、企業収益のうち、企業自身の貯蓄(内部留保)や株主の配当に回される部分が多くても、労働者の賃金として還元される部分が本来の額よりも少ないからで、正規労働者はベアなしの定期昇給で賃金が上がっているかのように錯覚し(本当はもっと上がってしかるべきなのに)、かたや全労働者の4割弱を占める非正規労働者の方は、はなから手取りが削られるようにできているというのが全体の構図です。もちろん、企業が収益を貯めこんできた理由には、それなりの背景もあるようですが、賃金の伸びに関し、これだけ各国の「後塵」をあおぐ状況下からは、それは短視眼的だったとの誹りはまぬがれません。

 表題の「死角」という語は「盲点」にも似て、「見えていない部分」があることを意味します。なぜ、この語を選んだのか。また「死角」はだれにとっての「死角」なのか。「はじめに」に書かれた執筆動機にあるように、著者の河野さんが大企業経営者と話をすると、「生産性が上がらなければ、実質賃金を上げられない」と真顔で返す経営者が多く、彼ら(彼女ら)の現状認識には「問題」があるということでしょう。「誤謬」や「錯誤」としないで「死角」としたのは、むしろ「リップサービス」かもしれません(笑)。

 小生のような「門外漢」は、知らない用語が出てくると、逐一調べなければなりませんが、その手間を含みこんだとしても、バブル期以降の日本経済の全体像が素人にもわかるように平易に解説されていると思います。しかし、個人的に最も共感したのは、日本経済のからくりを解説した部分よりも、著者の哲学というか、学的立場、視線を表明した箇所です。いつのことだったか覚えていませんが、小生もむかしブログで同趣旨の文を書いた覚えがあります。

……筆者自身は、イノベーションの方向性やビジョンを考える際、アイデアが生み出す付加価値の帰属も見直すべきだと常々考えてきました。あらゆるアイデアは、過去のアイデアの蓄積から生み出されたものです。それゆえ、新たな独自のアイデアであっても、それが生み出す付加価値をすべて独占することは許されないのではないでしょうか。
 優れた才能があっても社会から授かる教育や援助なしには開花しないのなら、自らのアイデアで生み出したものであっても、自分だけのものとは言えないはずです。強欲資本主義から転換するには、イノベーションの方向性を変えるとともに、そもそもイノベーションの果実の分配を見直すことが必要です。
 また、人新世(ひとしんせい アントロポセン)の時代においては「所有」という概念そのものを見直し、所有権には、必ずしも所有物を自由に処分する権利が含まれていない場合があることを確認する
必要もあります。自分のもんだからと言って、経済資源の費消を自由勝手に許せば、……人類の存続そのものが危うくなります。
 そうした点で、我々が当然視してきた「所有権的個人主義」についても、その行き過ぎた解釈を改める必要があります。……啓蒙時代の思想家であるエドマンド・バークは、社会が過去、現在、未来の人々の共同事業であって、現代の世代が自由気ままに扱ってよいわけではないことを喝破していました。臨床哲学者の鷲田清一(わしだ きよかず)が『所有論』で構想するように、次世代に受け継ぐために、保全するという「受託」という概念が「所有」には含まれていることを、我々はもう一度見直す必要があると思われます。

                       (河野、同書、267-268頁)

 「あらゆるアイデアは、過去のアイデアの蓄積から生み出されたもの」という一文には大いに共感します。農作物の種子とか、熱帯雨林の森の中の薬草なども同じです。それらは何世代にもわたって語り継がれ、引き継がれてきたある種の「文化遺産」であって、ある時代の特定個人のものではありません。それを「(自分が)最初に発見した」とか「(自分が)最初に実用化した」と称し、「特許権」とか「知的財産権」とかいう名目で、私的に(排他的に)囲い込んで、金もうけの材料にすることが、人類の歴史をどれほど冒瀆する愚かしい行為か。そして、著者がほのめかしているように、社会制度は結果から見ると「必然」のように思えますが、あとから振り返ってみれば、場面場面で「選択(方向転換や修正)」の余地はあったのであり、その意味で、私たちは、もっともっといい人間社会をつくる可能性をもっていると改めて思うのです。

[河野龍太郎『日本経済の死角』、ちくま新書、2025年2月、277頁]




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