今朝の新聞記事で映画監督の佐々木芽生(めぐみ)さんの名前を目にしました。彼女の名前は知っていました。むかし、和歌山県太地(たいじ)町の捕鯨・イルカ漁が、映画 「ザ・コーヴ」(2009年) の公開で一躍有名になりましたが、その一方的な視線に抗するように制作されたのが、佐々木さんが監督した映画 「おクジラさま ふたつの正義の物語」(2017年)だったからです。映画自体を見てないので、そんな偉そうなことは言えないのですが、記事を読んでいて、やっぱりあの人だ、と思い出したのです。本日付けの毎日新聞4面、井上英介さんの月1コラム「喫水線」からの引用です。
井上英介の喫水線:雲隠れの里でよみがえる | 毎日新聞
……09年公開の映画「ザ・コーヴ」は和歌山県太地町伝統のイルカ漁を非難攻撃し、米アカデミー賞を受賞した。英雄気取りの白人撮影チームが町の漁師たちを出し抜き、イルカ漁の現場へ向かう……。私も見たが、薄っぺらな勧善懲悪が鼻につき、不愉快で気分が悪くなった。
「おクジラさま」はカウンターパンチだ。「ザ・コーヴ」を契機に太地町で外国人反捕鯨活動家が抗議を繰り広げ、漁師らは反論もせず耐える。そんな町に佐々木さんは乗り込み、漁師や漁協幹部の本音を引き出す。「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義でした」。かみ合わぬ両者の言い分をスクリーンに洗いざらいぶちまけ、異文化の衝突を深々と描いた。……
当時太地町のイルカ漁についてどう思うかと、学校で生徒たちに聞いてみたこともあります。イルカが殺されて海が真っ赤に染まるシーンを見てしまうと(生徒には見せませんでしたが)、多くの人は残酷だと思うでしょうけれど、地元の漁師や関係者の話を聞いていくと、どうもそんなに単純な話ではなさそうだと思う子どもがでてきます。たとえば、以下は「Courrier」の記事の引用ですが、沈黙していた彼らが重い口を開いて、こういう趣旨の話をしていたことを知ると、心を揺さぶられるようです。
英国紙が現地取材: 太地町の人たちが知ってほしいこと | クーリエ・ジャポン
……「私たちは『ザ・コーヴ』以来沈黙を続けてきたので、私たちの視点がメディアに露出したことがないのです」と語るのは太地の漁協の貝良文参事。
人々が口を閉ざしてきたのは、貝参事によればシーシェパードなどの動物保護団体が、意図的に衝突を起こしてはそれらを撮影し拡散させるからだとした。
また、「イルカを幕で隠して殺すという習慣は、彼や仲間の漁師たちに何かやましいことがある証拠だ」という主張を否定した。
「活動家のみなさまは、隠しているのは私たちが悪しきことをしているという自覚があるからといいますが、それはありえません。牛やその他の動物も、公の場では解体しないでしょう。開けた場所でやるようなことではありませんから」
「海外の活動家さんたちは私たちに対してなぜかわいい生き物を殺すのか、と聞きますが、私たちにとってはいまでも貴重な食料源です」と語るのは太地町の三軒一高(さんげんかずたか)町長だ。
「私が子供だった頃は、沖から持って帰ってきた鯨を町の3分の1が出迎えにいったものでした。みんな肉を食べようと必死だったのです。だから、私たちは鯨には感謝しています。西洋の人にはそのことを知っていただきたい」
さらに、イルカや他の小さな鯨を捕獲することによって、漁師たちは、大量運輸とそれによって他の食材がもたらされる以前の時代を生き抜いた、先祖の伝統を続けているのだと、三軒町長は語る。
「ここでは米も野菜も採れませんし、天然の水源もありません。食べていくには鯨を捕る必要があり、そのために何百人も亡くなりました。ここは生きづらいところでした。
だからこそ私たちは先祖がはらった犠牲に感謝をしております。彼らのおかげで私たちはここにいるのです」
三軒町長にとって、太地町のすべて、高齢者サービスから教育や観光インフラにいたるまで、イルカを動物園や水族館に売ることで得た収入でまかなっているという。インタビューの間中、何度も「鯨の恵み」という言葉を口にしていた。……
多文化共生の時代とよく言われますが、共生=相互尊重とは言いがたい面が多分にあって、「西洋(白人)偏重」のものの見方や「自国ファースト」的な見方は依然この国にはびこっています。しかし、これは価値観の問題であるというより、物事に向き合う姿勢の問題のように見えますし、こう言っても許されるのならば、最終的には差別主義かどうかというところに行きつくかもしれません。
米国について言えば、あまりにも遅すぎたとはいえ、アメリカ先住民社会を崩壊させたことへの罪悪感は、自分だけが正しいという意識からは生まれ得なかったでしょうし、第二次大戦下に強制収容した日系人への謝罪も同様です。最近の世論調査によれば、政治指導者の見解とは裏腹に、米国の若い世代ほど広島・長崎への原爆投下をやむを得ないこととは見てないと言います。これにも当てはまるのではないでしょうか。
力関係で優位に立つ者、あるいは優位に立つときに、(難しいことですが)立ち止まって「もう一つの正義」がありやなしやと問題が立てられるかどうか。もちろん人も社会も何度も「失敗」するでしょうけれど、そのたびにこのことを思い起こす気構えはどこかでもっていたいと改めて思います。自分本位、唯我独尊の陥穽はいたるところにありです。
