ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

銃声が消えた街・砂川  

 熊の出没がニュースになります。9月1日から市町村の判断で市街地での発砲を認める「緊急銃猟制度」が始まりましたが、千葉県は周りが海と川に囲まれて、「陸の孤島」のようになっていて、大昔に熊が「移住」してこなかったせいか?熊が現れない県です〔でも、イノシシやアライグマ、ハクビシンなどはいますし、何と言っても南房総を中心にキョン(小型の鹿のような動物)がいます]。ですから、他県で熊が出たと言われても、小生を含め、生活実感のともなわない人が多いと思うのですが、今朝の新聞を見ていて、少しだけ「当事者」意識に近いものを感じました。
 北海道の砂川市で7年前、民家の近くに現れた子グマを撃った猟友会の男性が、鳥獣保護管理法違反と判断され、所有するライフルなどを全て没収されたという記事です。以後、砂川では発砲によるヒグマの駆除をせず、箱わなによる捕獲のみで対応しているそうです。
クマ:もう誰もクマ撃てない 要請受け駆除→銃許可取り消し 「地域の安全守りたいのに」 北海道・砂川 | 毎日新聞

……18年8月、砂川市内の山間部にある民家のすぐ近くに子グマが現れた。現場に駆け付けると、なじみの市職員と警察官がいた。「まだ子グマだから撃たずに、追い払った方がいいんじゃないか」と提案したが、「もう何度も出ているクマだから危ない。撃ってくれ」と頼まれた。
 子グマの近くには母グマもいるはずで、民家に近づいてくるリスクは大きい。依頼を承諾し、斜面にいる子グマに向けて1発を放ち、仕留めた。その場で市職員や警察官、同行のハンター仲間と終了の確認を取り合った。「よかった、ありがとう」と言われた。
 だが、8か月後、その日の発砲の方向が民家に向かっていたなどとして、道公安委員会に狩猟所持の許可を取り消された。……

 この男性は処分取り消しを求めて提訴していて、1審では処分は行き過ぎとして勝訴しましたが、2審では、弾がヒグマに命中したとしても、弾道が変化するなどして周辺の建物に到達する可能性あったとして発射行為は違法とされたということです。これ以上の詳しい事情はわかりませんが、要請を受け、市職員と警察官の立会いの下に銃を撃ったわけで、こんなことになるんじゃ「もう誰も撃てないよ」と嘆く男性に同感します。公安委員会や高裁の裁判官には、「当事者」がおかれていた状況、ひいては、この処分や判決がどんな社会的影響を及ぼすのか、想像力(理解)が欠けているように思えます。法文を(厳格に)適用し処分して済む話ではない感じです。

 上の話と関係ありませんが、「当事者意識」を欠くという意味で、この夏、稲のいもち病対策で、無人ヘリコプターによる農薬散布の作業を手伝ったときのことを思い出しました。短時間とはいえ、早朝から民家の近くをヘリが飛ぶこともあるので、事前に期日の周知、散布時間・場所などには配慮したつもりでしたが、途中パトカーが現れたので、農薬散布中に人や車が通るのを危惧して巡回してくれてるのかと思ったら、そうではなく、ヘリの音がうるさいと警察署に通報があったので確認に来たということでした。事情を説明していったんは戻ってくれましたが、その後も責任者のところに二回ほど電話が入って、何時になったら終わるのかと、繰り返し尋ねられたということです。いくら「配慮」をしたとしても、静かな明け方にビュンビュン音がして起こされれば、それは不快かも知れませんが、ほんの数分だから、我慢してくれないものかというのがやってる側の気持ちです。もし、この件で、ヘリを操縦している人が「処分」を受けるなんてことになったら(ならないと思いますけど)、もう誰もヘリの農薬散布を頼まれても受けないよ、という思いになるでしょう。気持ち程度の謝礼はあっても、みんなほとんどボランティアですから。

 藤田省三さんの『精神史的考察』を読んでいたら、決断と理解の違いについて、こんなことが書いてあります。

……決定や決断は行動方針を決めることなのだから、どこまでも一義的に明確でなければならない。右と左と両方へ同時に行くことを決めました、などという決定がありえないことを考えればその事は明らかであろう。その、どこまでも一義的で明確でなければならぬ、という点で、決断は理解とか認識とかとは違うものである。
 理解や認識はできるだけ多面的であることを必要とする。場合によっては多義的(アイマイ)な表現をさえ要求する。決断はそうではない。多面的な理解の上に立って行動を決める決断は、その前提をなす理解の多面的で多義的な世界から一躍して、一義的でどこから見ても一つにしか見えないような明晰さを持ったものになっていなければならない。むろん、行動の原理である決断は一つ一つの行動に関するものだから、次にはまた理解の世界に投げ返されてその決断の良否・適不適を検討されなければならない。この往復運動を失って、ただ決断するばかりをやっているような決断主義は、ハネ上がりとなったり行動ニヒリズムとなったりする。他方、理解の多面的で多義的な世界に入りっぱなしで一切決断しないものは右顧左眄のグズとなる。……

                (藤田、同書、みすず書房版、166-167頁)

 藤田さんが言うようなレベルの話ではないかもしれませんが、砂川の男性の訴訟は、できるだけ「多面的・多義的な理解・認識」のもと、公正な判決(決断)をお願いしたいと思います。



 
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