連日トップニュースに準ずる扱いで報道されている神戸の刺殺事件は、報道側(あるいは捜査側)にこの事件を特別視する理由か意図があるのでしょうか。事件が起こったのは20日、容疑者が逮捕されたのが22日ですから、もう一週間です。報道する側に、社会としてこうした犯罪を許してはならないという「正義心」や被害者への同情心はあるにしても、事件の「ストーカー(つきまとい)」的な面に引きずられ、ゴシップ的かつワイドショー的になるのはどうか。昨日は(とうとう)被害者が「好みのタイプだと思い、あとをつけた」という容疑者の供述(趣旨)まで伝えられました。TVや新聞からすると、事件が俄然「筋書(ストーリー)」に乗ってきたというところでしょうけれども、「やっぱりそうだったのか、そうにちがいない」と言わんばかりに、この種の発言に飛びつくのは感心しません。
神戸女性殺害事件 容疑者 “好みのタイプであとをつけた” 趣旨の供述 | NHK | 事件
おとといのブログで、(監視カメラなど)機器に頼り過ぎると、「人間が本来もつ関係をつける力、調整する力、秩序や倫理を形成する力はどんどん劣化して、社会の問題が個人の問題に転化されていく」と書きましたが、この事件についても、例外的に特異なる個人が引き起こした卑劣な犯罪ということで世間的には「納得」するのでしょうが、そう思うほどに、何か引っ掛かるものを感じます。とはいえ、今は連日「ざわついて」いますが、他の諸事件と同様、この事件もやがては世間から忘れられていくのは避けられません――報道の世界にも、ニュースという名の「商品」の生産と消費の関係がある程度あてはまるとしても、それがはたしてTVや新聞の社会部の記者さんたちの思いに沿うものなのか。事件・事故には当事者の「個性」だけでは言い尽くせない「社会」の作用や誘因は当然あります(と思います)。別の機会にでも、検証が必要ではないでしょうか(記者が単なる記事の生産者か、それともジャーナリストかが問われると思います)。
連日気の滅入る事件が多いですが、今朝の毎日のコラム「金言」の記事は、「逆のケース」というか、社会の問題が個人の問題(悪意)に転化されても、それが社会によって蔽われ(「悪意」が薄れ)ていく現象について書かれていると感じました。担当の編集委員・小倉孝保さんには、人間と社会の善意を見つめる記事が多くて、たびたびほっと(ハッと)させられます。
金言:嫌がらせへの対処法=小倉孝保 | 毎日新聞
社会を成り立たせているのは厳格な約束ではなく、緩い信頼である。飲食店が出前の注文や予約を受ける度に、契約書にサインを求めていては商売にならない。
カナダ・オンタリオ州のハンバーガー店に今月初め、「クリス」と名乗る者から、注文が入った。
地元メディアによると、ハンバーガー、チーズバーガー、チキンサンド、プーティン(地域の伝統料理)を各5個、ダブルバーガーとフライドポテトを各10個、そしてミルクセーキを20個の大量注文で、受け取り予定は翌日午後1時半だった。
結局、店は裏切られる。クリスは現れず、注文書に記された電話番号はつながらなかった。悪質な嫌がらせのようだ。
調理した従業員たちの憤慨、落胆は想像に難くない。オーナーのシレットさんはスタッフに「よし、誰かに食べてもらおう」と語りかけ、料理を福祉施設に提供する。交流サイト(SNS)にはこう書き込んでいる。
<良い教訓になりました。注文者の無事を願っています。食料を寄付し、良い形で終わりました。受け入れてもらい、ありがとうございます!>
SNSにはこの対応に賛辞が相次いだ。
<優しさは常にさらなる優しさを生む><地元には素晴らしい人たちがたくさんいる>
…………
ある住民は料理が施設に寄付されたと知って来店し、注文者に代わって料金計439.2カナダ㌦(約47,000円)を支払っている。店はこう報告した。
<小さなお店にとっては大きな金額でした。感謝でいっぱいです。ネガティブな経験をポジティブなものに変え、地域にとっても重要な意味を持ちました>
営業妨害は本来、法律で規制すべきだろう。ただ、細部までルールが支配する社会は息苦しい。そうしないためには地域や個人が法の穴を埋めるしかない。
つらい経験を人助けに転換し、それを住民が応援する。店や地域の対応は健全だった。注文主が店を困らせたかったのだとしたら、自身の愚かさに気付かされたはずである。
我々個々人は「社会」から日々何を受け取っているのか。さらに言えば、何を受け取ろうとするのか――「悪意」も「善意」もありそうです。
