昨日届いた雑誌『地平』を夜にぺらぺらとめくっていると、写真家の石田昌隆さんの連載記事に、戦後上野駅の地下道で暮らしていた戦争孤児の話がありました。子どものころ、自宅を訪ねてきた神奈川県在住の大叔父と父親が終戦直後の様子をよく話していましたが、その中に路上で暮らす戦争孤児の話があったように記憶しています。子ども心には、そうした話は何度聞いても新奇に感じられましたが、同時にそれがどういうニュアンスで語られていたかも印象に残りました。戦後、そうした境遇にならずに生きてこられたのは、単なる「偶然」であって、もし、空襲や戦災規模が大きくなかった小生や親の生まれた田舎ではなく、別の土地に生を受けていたら、自分や自分の親族にこうなる人がいても不思議ではなかった(つまり自分たちは運がよかった、と)――話の聞き役だった(はずの)父親の受け答えには、そんな感じがあったと思います。
石田さんの文章からの引用です。
2018年8月12日、「NHKスペシャル」で『“駅の子“の闘い~語り始めた戦争孤児~』が放送された。……
……金子トミさんは、終戦直前、15歳のとき(番組放送時は88歳)に山形で空襲に遭って親を亡くし、昭和20年秋、幼い弟と妹を連れて上野に来て駅の地下道で暮らしはじめた。終戦直後の上野駅には多くの戦争孤児がいて、食べるもののない子どもが次々と命を落としていく過酷な状況だった。わずかながらもお金を持っていた金子さんは、一日一本のサツマイモを買い、「ほかの人に見えないように食べるんだよ」と言って三人で分け合って食べた。金子さんは強い罪悪感に苛まれたがどうしようもなかった。心配して声をかけてくれる大人はいなかったし、なんで政府はおにぎりひとつもくれないのかなと思ったという。
…………
戦争孤児は12万人以上いた。親戚の家で育てられた孤児も多いので、路上での生活を余儀なくされた孤児の数はわからないが、昭和21年の春、GHQが「浮浪児が一週間以内に東京から一人もいなくなるように」と厚生省に指示を出したことを受けて、「狩り込み」(行政による強制収容)が始まった。しかし子どもたちを保護する公的な施設は少なく環境は劣悪で、脱走する子どもも多かった。
そのような戦争孤児は何をして生きていたのか。多い順に、物乞い、持ち金消費、窃盗、タバコ拾い、闇屋手伝い、靴磨き、スリだった。「浮浪児」と呼ばれていた駅に暮らす子どもたちに対して、世間の目は、無関心から嫌悪へと変わっていった。昭和22年9月14日の毎日新聞には「飲む・喫う・盗む・末恐ろし浮浪児」という見出しが踊った。駅の待合室に入ろうとすると出て行けと追っ払われたり蹴られたり、飲食店に行って食べ物を拾おうとすると水をかけらたりと、野良犬のような扱いだった。……
昭和22年、1947年は笠置シヅ子の<東京ブギウギ>がヒットした年で、戦後復興に走り出した。1950年の朝鮮戦争の勃発によって特需に沸いた頃には、上野駅の地下道で暮らす子どもたちはほとんどいなくなった。……
今年4月15日の朝日新聞に「飢え、横たわる命、路上に消えた 地下道の子どもたち」という記事があり、3月10日の東京大空襲で家を焼かれ、親を亡くして戦争孤児になった鈴木賀子さん(87歳)の証言が出ていた。実体験として戦争を語れる人が少なくなっているなか、上野駅の地下道で暮らし「浮浪児」と呼ばれた子どものひとりだった鈴木さんの体験談はリアルで重かった。
「アメリカ兵からチョコレートをもらったこともあります。でも、あれも簡単にはもらえない。ジープが動き出しても必死にしがみついていると、危ないと思うから板チョコをくれるんです。でも、私はもらったチョコを食べたことは一度もないの。ヤミ市で雑炊と交換していました。大きいどんぶりで弟の分まで雑炊をくれました。それで雑炊屋のおばちゃんが板チョコを売るんです」……
(石田「Sounds of the World」、『地平』・2025年9月号、218-220頁)
今年は戦後80年。節目の8月15日を前に、石破首相は当初発表するつもりでいた「戦後80年談話」を見送る方向と伝えられています。自民党内の保守派に、戦後70年に際して出された「安倍談話」が書き換えられるおそれがあると、懸念と反発があるからなのだそうです。8月1日付の「Aera」で今西憲之さんが解説しています。
石破首相の戦後80年談話は「不要だ」と旧安倍派幹部 裏金問題で処分された幹部がまとまって退陣圧力 | AERA DIGITAL(アエラデジタル)
……今年は戦後80年で石破首相が見解を出す予定ですが、10年前に安倍晋三元首相が出した談話とはかなり違ったカラーになるという警戒感が旧派閥の中にはあります。だから、旧安倍派の幹部は石破首相に戦後80年の見解を出させまいと、石破おろしに奔走しているのです」
これまで戦後の節目にあたって、時の首相が、先の大戦の検証や平和への思いを込めた談話を出してきている。戦後50年は村山富市元首相、戦後60年は小泉純一郎元首相、戦後70年は安倍晋三元首相だった。
石破首相は今年3月に硫黄島に訪問した際、戦後80年の節目にあたって、閣議決定を伴う「首相談話」ではなく、首相個人としてのメッセージを出す意向を示している。
これは、安倍元首相の「70年談話」の中に、〈あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません〉という文章があることなどから、旧安倍派など自民党保守派に、「謝罪を繰り返すような新たな談話は不要」という意見があることを踏まえたものだとみられている。
だが、旧安倍派議員は、個人的なメッセージであっても、党内でリベラル寄りとされる石破首相が、安倍元首相の談話と異なる内容の見解を示し、首相談話が上書きされることを警戒しているのだ。
■SNSで「これ以上の戦後談話は不要」
旧安倍派の西村康稔元経済産業相は7月29日、自身のX(旧ツイッター)に、次のように投稿し、石破首相の戦後80年メッセージが不要だと主張した。
〈戦後70年談話は、安倍晋三総理が、戦後に終止符を打つために、有識者による懇談会など様々な意見を踏まえながら丁寧に時間をかけてまとめられたものです。当時、そして今も、多くの国民によって支持されているものと理解しています。また70年談話には結びにおいて、戦後80年、90年、100年に向けて日本の国づくりの理想を語っており、そうした意味でもこれ以上のいわゆる戦後談話は不要と考えています。無用な混乱を招くおそれもあります〉
……<以下略>
日本の戦争をいまだに自衛戦争だとかアジア解放のための戦争だなどと称する人は、事実認識自体が間違っているので論外ですが、日本の侵略行為を認める人の中には「いったいいつまで謝罪しなけりゃならないのか」と思う人がいるようです。この「謝罪」はもちろん対外的なものでしょう。しかし、政府として謝罪すべきは、外国(の人々)だけではありません。
冒頭で上野駅の戦争孤児の例を引いたように、彼ら彼女らは、もし戦争で親や身寄り、家を失わなかったら、故郷で普通に暮らせた子どもたちだったはずですから、厳然たる戦争の被害者です。日本政府は、外国民だけでなく、自国民に対しても、戦争に巻き込んで被害を与えた責任、引き際を誤って被害をさらに拡大させた責任……があるわけで、諸外国の人々と同様、謝罪する必要があるはずです。もし、政府として「談話」を出すなら、政府の責任により国民を戦争の惨禍に巻きこんだことへの「謝罪」を明確に盛り込むことが必要です。でないと、いったん政府が戦争をやると決めたら、国民は覚悟しないといけない式の運命共同体により、かりに被害があっても甘んじて受けなければならない(「国民受忍論」)ということになってしまいます。補償云々は別途必要な話としても、このやっかいな「国民受忍論」を政府の責任論に転換させていくことが課題かもしれません。
そういう意味では、10年前の「安倍70年談話」の中の〈あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません……〉以下の文言にも、これだけ見ると共感を呼びそうですが、政府の(謝罪)責任をあいまいにし、政府と国民を一体化させる「一億総懺悔論」の巧妙なしかけを感じないでもありません。
