ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

反全体主義としての「ポリフォニー」 バフチンを読んで

 ミハイル・バフチンの『ドストエフスキー詩学』を読んでいます(まだ半分くらいですが)。ロシアの作家ドストエフスキーの作品(作風)に、音楽になぞらえて「ポリフォニー(多声音楽、複数旋律)」を見出したバフチンの評論の代表作です。確かに文学論のひとつには違いないのでしょうが、話は全然文学にとどまらないと思います。多くの人からバフチンポリフォニー論が注目されるゆえんです。

 読んでみないとわからないところはありますが、ロシアの作家で言ったら、個人的にはドストエフスキーよりもトルストイの方が(断然)わかりやすいし、描写の迫力や思想性に共感するところが多々あります。少なくとも若い頃(というより30、40代くらいまで)はそう思っていました。しかし、バフチンの書いたものを読んで、このポリフォニーの意義というか、登場人物の対話や作家の立ち位置にドストエフスキーがどんなセンスをもっているのか、その手法、作風を知ると、ドストエフスキー作品も魅力的に映ります(でも、やっぱり正直好きではないんですけど 笑)。

 バフチンによれば、ドストエフスキー作品の主人公(登場人物たち)は、いろいろと深みのある対話を重ねていますが、それらは作者(作家)に統御されておらず、むしろ作家は主人公と同列(同等に対話に参加している)というようなことまで言っています。作者がいるから(作品内の)主人公(登場人物)がいるんで、作者と離れて主人公が(主体的に)存在するなんて、そんなことはあり得ないだろうというのが普通の人の受け止めだと思います。
 しかし、思うに、小生も、たとえばブログの中に、しばしば「トランプ」や「麻生太郎」なる人物を登場させて台詞を「しゃべらせて」いますが、小生自身が主体的に書いているのにもかかわらず、「トランプ」や「麻生太郎」が(「本人」らしく)しゃべっていることを書き留めているだけ、というような感じがなくもないのです(すぐには得心しないと思いますが)。あるいは、植木の剪定をしていると、たまに樹木の方からここを切れと言っている箇所が見えることが(よく)ありますが、これも似た感じがします。彫刻家も石などを彫っていると、石の方からここを彫れと言っていることがあるという話を聞いたことがありますが、まさに感覚的に近いものがあります。

 ポリフォニー的な作風と対をなすのは「モノローグ(一人語り)」的な作風です。バフチンは「モノローグ」の代表としてトルストイの作品をとりあげて検討しています。

……(トルストイの作品、たとえば短編『三つの死』には)登場人物相互の間にも、彼らそれぞれの世界の間にも、対話的関係は存在しない。そして作者も彼らに対話的に関わろうとはしていない。主人公たちに対する対話的な位置は、トルストイには無縁なのである。彼は主人公に対する自分の視点を主人公自身の意識にのぼらせるようなことはしないし、また彼にとってそれは原理的に無理である。したがって主人公が作者の視点に応えるようなことも不可能である。モノローグ的な作品で、作者が主人公に対して行う最終的で総括的な評価は、その本質から言って本人不在の評価であり、主人公の側がそれに対して反応するかもしれないということは、予定にも計算にも入っていない。主人公には最終的な言葉は与えられていないのである。だから彼は、自分に相談もなく作者によって与えられた評価という、いわばまるごと彼を包み込む堅い殻を打ち破ることができないのだ。作者は主人公が内側から行う対話的抵抗を受け入れる態度を持っていない。
 作者トルストイの意識と言葉は一度として主人公に向けられることはないし、相手に問いかけて返事を待つということもない。作者が自分の主人公といがみ合うことも認め合うこともない。作者は主人公とではなく、主人公について語っているのだ。最後の言葉は作者に属している。しかもその作者の言葉は、主人公の外部にあって彼が見ることも理解することもできない事柄に基づいており、主人公の言葉と同一の対話平面で出会うことはあり得ないのである。
 この小説の登場人物がそこで生き、死んでゆく外部世界は、人物全員の意識に対して客観的な関係にある作者の世界である。そこではあらゆるものが、すべてを取り込んでしまう全知の作者の視野の中で見られ、描かれる。……作者の言葉は、同一の対象を別の自分なりの仕方で、つまり自分の真実に従って説明してみせるような、あり得べき主人公の言葉の抵抗感を感じていない。作者の視点と主人公の視点とが同一の平面で、同一のレベルで出会うことはあり得ないのだ。主人公の視点は(それが作者によって開示された場合)作者の視点にとって常に客体的なものなのである。
 こうしたわけでトルストイのこの短編は、多次元的であるのにもかかわらず、ポリフォニーも対位法も含んではいない。そこにはただ一つの認識する主体が存在するだけで、残りはすべて彼の認識の客体に過ぎないのだ。そこでは主人公たちに対して作者が対話的態度を取ることはあり得ず、したがって主人公と作者が対等の権利で参加する≪大きな対話≫も存在しない。……

                      (バフチン、同上書、144-146頁)

 ポリフォニー(対話)にある種のハラハラ感やドキドキ感があり、逆に、モノローグによく言えば安心感、悪く言えば既視感や形式主義のようなものがあるのは、そういうことかと思わないでもありません。が、そこには文学作品の(芸術)様式に留まらない重要な指摘が含まれている感じがします。作品全体を「統御」するのはもちろん作者自身ですが、執筆しながら主人公(登場人物)と作者自身が「対話」する場面というのは、それが作品に表現されるかどうかはさておき、ありうる事態だと思います。しかし、モノローグの様式からすれば、そんなことは作品中に必要はないし、そんなことをしたら作品自体が台無しになってしまうでしょう。
 ところが、モノローグの文学では避けられる「対話」が、文学を離れて政治社会になると、むしろ必要とされる場面の方が多い。統御する側からしたら、(先の読めなくなる)「対話」なんぞ必要なく、命令一下に末端まで上意下達で意思が貫徹する方が好ましいでしょう。トップダウンはいいけど、ボトムアップは煩わしいし、「対話」の必要性などを考慮していると時間も労力もかかってしまう。手っ取り早く思うとおりに人や組織を動かすには障害でしかない、と――米国トランプ政権を例に挙げるまでもなく、そういう一種の「合理主義」、ここで言えば「モノローグ」の一面、その極みが全体主義(的統御)に思えてきます。そう考えると、ポリフォニーの「対話」は全体主義の対極にあるのかも知れません。
 ……そんなことが頭に思い浮かびながら、本読みは後半へと進みます。

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』、ちくま学芸文庫、1995年]

追記)3年前に書いたものですが、以下もご覧ください。
暉峻淑子『対話する社会へ』 - ペンは剣よりも強く



社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村