ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

保守派と「保守」の思考

 石破さんは、すぐにではないにせよ、辞任が避けられない情勢になってきました。巷には「石破やめるな」の声もあるそうですが、その理由は、「ポスト石破を担う人物」への不信感や警戒感のようです。今朝のTVや新聞でも、自民党内の「保守派」を中心に会合を開いたりして、水面下で蠢いている様子が紹介されていました。自民党の「保守」票が、日本保守党や参政党に流れたという話もあり、自民党がこの「保守」票を次回の選挙で取り戻せるかどうかが課題だという指摘もあります。選択的夫婦別姓は言うまでもなく、この国の「保守」派は日本の政治状況を左右する存在になったと改めて思います。

 これはもちろん個人的な印象ですが、この国ではかつて(と言っても私的に世間の空気が何とかわかる1960・70年代以降の話ですが)「保守」という語は、政治理念や主義主張としては、それほど多くの人を引きつける思想(考え方)ではなかったように思います。語に「守旧」「固陋」というイメージがつきまとうせいか、マイナスの評価を与える人の方が多かったはずです。
 小生が学校に勤めている頃、1990年代の半ばくらいだったと思いますが、実験的に生徒にどんな政治理念や主義主張を好ましいと思うか、授業で簡単なアンケートをとったことがあります。よくは覚えてはいませんが、「自由」が飛び抜けて多かったことは印象に残っています。あとは、「民主」とか「国際」とか「環境」とかが比較的プラスで、「社会」はふつうより下、「共産」はさらに下、……で、このとき一番不人気だったのは「保守」だったのです。これでは、日本で(英国などとちがって)「保守」を掲げる政党は出てこないなあと当時思ったことを覚えています。
 それが今や公然と自分は「保守(主義者)」だと言う人は珍しくないし(小生の近所にもいます)、先日の選挙でも「日本保守党」は298.2万票を超える得票で、共産党(286.4万票余)、社民党(121.7万票余)を凌駕しました。この30年で世の中の空気は「保守」へと変わったと見るべきなのか、単に「左翼」勢力の人気が墜ちて相対的に上がっただけなのか……。

 ヨーロッパの「保守主義」は日本とはやや異質なもののようですが、英国のエドマンド・バークフランス革命政権の急進主義を強く批判したことが始まりとされています(フランス革命では、国王がギロチンにかけられたり、「反革命」のレッテルを貼られた、おそらく罪のない人たちが多数処刑されました)。特にその思想の核心には、理性万能の思い上がりに対する戒めがあり、そこから(歴史的)伝統には一定の敬意が必要で、古いからって何でも破壊すりゃいいってもんじゃない、人間には歴史と伝統に対する「謙虚さ」が必要だという話になると(個人的には)理解しています。 
 「守旧」という面に偏りがちな日本の保守主義を、ヨーロッパのこの「保守主義(思想)」に合わせて評価する必要はありませんが、古いものをなぜ守らなければならないと思うかという部分に差異があることは気にかけておく価値があると思います。人間理性の限界を意識して(謙虚に)過去に向きあうのと、やみくもに過去を賛美するのとでは大違いだからです。
 いや、ひょっとしたら「やみくも(無差別に何でも過去を賛美する)」の方がマシかも知れません。彼ら日本の「保守」派の賛美する「過去」から、女性が天皇だったことのある史実は除外されがちですし、「東京裁判史観」を批判するわりにはアメリカへの(個別)批判は寸止めされます。……つまりは自分たちにとって都合のよろしくない「過去=歴史的事実」は賛美の対象から外す傾向があるのです。極めて意図的で、それゆえに「政治的」と言えましょう。

 自民党の次の総裁候補には「保守」派と呼ばれる人々の名前が上がっていますが、衆参両院で少数与党に陥って、政権運営に苦労するよりも(つまり石破さんのようになるより)、今の野党にいったん政権を譲り、前の民主党政権時代のように次々と失政をあげつらえば、次には選挙で勝ってまた自民党の安定政権ができる(それから総裁=総理をやった方が得策だ、だから今回は1回パスしよう!)などと考える向きもあるようです。
 それでも総理大臣になれる絶好のチャンスという気持ちには抗えないのか、それとも、邪な計算を優先して1回辛抱するのか、己の「限界」を意識しながら過去と今に向きあうという(保守主義の?)思考からすると、何ともお粗末で自己都合の(つまりは、国民のことなど何も考えない)駆け引きが始まりそうな予感がします。





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