「反知性主義」――米国でも日本でも、いや、ひょっとしたら大衆化とセットになって、世界中を蔽っているかもしれません。米国の「反知性主義」の原点には「西部開拓」とフロンティア精神があるというような話を以前、読んだことがあります。「西部開拓」の時代、最前線の大平原でバッファローや先住民など、全体として厳しい自然環境と相対しながら生きていくのに、実用的な知識は役に立っても(プラグマティズム)、ハイカルチャーな知性はほとんど役にたたないと。しかし、社会的には、そんな知性を振り回して教養人をきどる連中の方が幅をきかせ、次第に支配的地位に立っていきます。しかも、その上下関係が固定化されるようになると、「劣等感」の裏返しから、知性を語るエリートへの反感や敵視が育まれていく。そういう「伝統」が米国には脈打っているのだと。その延長上に現トランプ政権による大学への締め付け、ハーバードへの敵意があり、世論の中にそれに同調する声があるというわけです。日本でも、反官僚(反公務員)、反マス・メディアといった感情の中に似たようなものを見ることがあります。
日本学術会議の「法人化」法案への一般の視線に「反知性主義」があるとも言いうるし、それほどでもないとも思えるし、単に遠くの出来事のように見られているとも言えるし……。ただ、政府・自民党側の意図はわりとはっきりしていると思います。5年前の菅内閣が会員候補6人の任命を拒否した「根拠」は今もなお明らかにされておらず、その説明なしに今学術会議のあり方を変えようというのですから、何をそんなに急いで進めようというのか。おとといの毎日新聞には、次のような解説記事がありました。
焦点:学術会議法人化、大詰め 政府「管理」譲らず、自民案に回帰 | 毎日新聞
……政府・与党は、(学術会議)法人化のメリットとして、政府から独立すれば外部資金を得られることを挙げる。一方で原子力政策や軍事研究について、政府方針に厳しい指摘も行う学術会議への不満が自民党内で高まっていた。「政策のため」の組織にする必要があるとして、PT(学出会議の改革に向けた自民党のプロジェクトチーム)の提言では法人化に際して「評価委員会などの設置が必須」とされていた。
新法人に移行後も、政府は引き続き学術会議に予算を付ける方針だ。一方で「お金を出すからには一定の政府の関与が必要」との姿勢を崩さない。
今回の法案が、何重にも学術会議を「管理」する仕組みとなっているのはそのためだ。
特殊法人化によって、首相が会員を任命する仕組みから、学術会議側が総会で選ぶ方式に変わる。しかし、法案では、首相がメンバーを任命する「監事」や「評価委員会」が活動を厳しく監査したり評価したりする仕組みを設けている。……
国会審議を通じて、首相が間接的に会員選考に関与できる可能性も浮かび上がってきた。政府は26年10月に新組織を発足させる方針だ。その際、首相が指定した有識者2人と現会長が協議して選んだ「候補者選定委員」10~20人が会員候補を選考するという。さらに坂井学・内閣府特命担当相は「特定のイデオロギーや党派的主張を繰り返す会員は解任できる」と答弁した。……
特定のイデオロギーに染まった者が多すぎて、「選択的夫婦別姓」の舵さえ切れない政党所属の人間に、こんなこと言われたくないよと思いますが、学術会議法人化法案は衆院を通過しており、このまま押し通される危険性大です(この「法人化」という言い方が実にくせ者です。何も知らないと政府から「自立」した機関のようにみなされるからです)。折から、世間の目はコメ問題にばかり向けられ、関心が逸らされています。非常に憂慮される情勢です。
今朝の新聞のコラム「メディアの風景」で武田徹さんはこう書いています。
メディアの風景:「反知性主義」日本でも 学術の価値 説きほぐす必要=武田徹 | 毎日新聞
……日本学術会議を特殊法人化する法案の衆院通過後、歴代会長らが廃案を求める声明を出した。「政府による科学の独立性の軽視と科学の手段化を深く憂慮する」という訴えは実にまっとうで、政府による学術の恣意的利用は警戒すべきだ。だが、そこに危機感を覚える世論が確かに形成されていれば、菅義偉政権下での新会員任命拒否に端を発する政府との確執で、学術会議がここまで追い込まれることはなかっただろう。
彼らの孤軍奮闘を見て、「知性」の在り方を改めて顧みる必要を感じ、思い起こしたのが市民運動家としても活躍した哲学者の鶴見俊輔が戦前にハーバード大に留学してヘレン・ケラーに会ったエピソードだ。
彼女は「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」と述べたという。まなんだ(ラーン)後にまなびほぐす(アンラーン)。鶴見は「型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおす」情景を想像したと書いている(朝日新聞2006年12月27日朝刊)。
米国の大学が多様性、公平性、包摂性を求めてきたからこそ日本人留学生と多重障害を持つ女性は出会えた。そして「まなび」を身の丈に合わせて「ほぐし」た結果、2人の知識人は多くの人に愛され影響を与えた。
研究の最前線でしのぎを削る学者たちが自らの学びを顧みるゆとりを欠くのであれば、代わりに学術の価値を「説きほぐして」伝える役割を果たすべきはジャーナリズムだろう。知識人や科学者を孤立させず、アカデミズムの自己検証を助けるジャーナリズムが今こそ求められているのではないか。
放送タレントの松尾貴史さんも、おととい付の「ちょっと違和感」でこう書いていました。
松尾貴史のちょっと違和感:学術会議法案 危ぶまれる独立性 | 毎日新聞
……この問題をしっかり伝えている大手メディアはどれくらいあるのだろうか。
国の方向性に関わらず、科学の観点から独自の意見を述べてきた学術会議が政府の干渉を受け、政権の顔色をうかがって提言をするようになれば、国は破滅に向かってしまう。これは杞憂ではない。
東京大の隠岐さやか教授(科学史)は「法案の通りだと連携会員2000人がいなくなり、考える人の数が減る。組織全体として『頭が悪くなる』リスクがある。少数の政治的介入を受けた人が中(内部)の議論をリードし、ある種の方向に日本社会を引っ張っていくようなことにならないか」と警鐘を鳴らしている。
公文書管理法という法律があり、そこでは公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置付けている。にもかかわらず、官僚の自己都合で廃棄したり隠蔽したりしている現状をみれば、こんな学術会議の法案が通ってしまえば政府はどんな運用をしたいか、その意図が透けて見える。……
学術会議が生まれた背景には、第二次世界大戦中に科学者たちが戦争に協力したという反省がある。その「黒歴史」を忘れず、科学や学問は社会全体の福祉のために使われるべきだという理念で、自主性と独立性を確保する機関として生まれたのだ。それなのに、安保法制などに批判的な立場をとった学者を排除するという政府の行為は暴挙であり、到底許されるものではない。このことは声を大にして何度でも言いたい。
遅きに失している感もありますが、それでも松尾さんの言うとおり「黒歴史」を繰り返さないために、この法案は(少なくとも)このまま通してはいけないと、小生も思っています。メディアよ、奮起を!
