今日は短く。
今朝新聞を見ていて、ひとつの投書に惹かれました。書いたのは東京都在住の40代の男性で、職業はアルバイトとなっていました。投書は「学び、問い続け、投じる1票に価値」という題名でしたが、おそらくこれは本人ではなく、編集担当の裁量で付されたものではないかと推測します。確かに末尾にそういう内容が書かかれているのですが、小生にとっては、むしろその前段に書かれている文言が重要に思えました。引用をお許しください。
https://mainichi.jp/articles/20250513/ddm/005/070/134000c
選挙における投票率の低さが問題になり始めたのはいつからだろう。政治不信という言葉を、少なくとも僕は小学生の頃から聞いている気がする。
選挙に行かない理由でよく耳にするのが「行っても何も変わらない」だ。もしも若者がそうしたことを口にすれば、良識ある大人は「そんなことないよ」とたしなめるのではないか。
ただ、僕は最初に確かめたい。「変わらない」とは「良くならない」の意味なのか。力点がそちらにあるのなら僕も少しは理解できる。でも、同時に考えたいのは「選挙に行かない人が増えても、社会は悪くならないのか」という問いだ。「良くも悪くもならない」と考えるのはノーテンキというものだろう。
僕は大学を出た人間ではない。それでも世の中に疑問を持ち、学び、問い続ければ自分自身は変わる。投票所へ向かう大人の姿は次世代へのメッセージでもある。そうして投じた1票が僕なりの投票の価値だと思う。
むかし学校で働いていた頃、同僚の先生方にも、投票に行かないという人が何人もいて、びっくりしたことがあります。そもそも土日も部活動やら引率やらで忙しく駆り出されているのは確かで、酌量すべき点がないではありませんが、それにしても、学校で子どもに教えている先生方ですから。これは私的な憶測に過ぎませんが、教員も全体的には、発表される投票率の数字を多少上回る程度の割合でしか投票所に足を運んでいないのではないかと思われます。あるとき、「自分はもう何年も選挙には行っていない」とおっしゃる先生に「何で行かないんですか?」と尋ねたら、「だって、行ったって、何も変わらないじゃんか」と答えたのをよく覚えています。真面目で熱心で、生徒にも厳しい先生の言葉だけに、大変驚きました。
選挙に行っても、行かなくても、何も変わらない――投書主さんは「もしも若者がそうしたことを口にすれば、良識ある大人は『そんなことないよ』とたしなめるのではないか」と書いていますが、子どもにものを教える立場の学校の先生からして、「行ったって何も変わらない」と思っている人が(少なからず)いるわけです。投票に行ったからといっても「良くならない」面は確かにあるかもしれませんが、じゃあ、「(何も)悪くならないのか」と問われて、「良くも悪くもならない」と考えるとしたら、それは、この投書主さんの言うとおり、確かに「ノーテンキ」(すぎる)でしょう。小生も、どう言うかはともかく、あのとき、後問いするか、二の句を“継ぐ”べきでした。
とはいえ、実際問題、投票率が下がっているのは日本だけの傾向ではありません。単純に投票率を上げるということなら、他国の例を参考にして、その手立てを考えることもできます。一番「強烈」なのは、オーストラリアなどのように投票を義務化し、投票しない者には罰金刑を科す方式でしょう。
投票が「国民の義務」のオーストラリア 複雑な「順位付け」方式 その意義とは?:朝日新聞GLOBE+
もちろん、このやり方は賛否が分かれるでしょうけれど、もし、政府がどうしても投票率を100%に近づけたいと本気で考えるならば、マイナカードなどは硬軟織り交ぜてですけど、国民に「強制」しようとしているわけで、できないことはないはずです。そうしないのは、国民全般がこのやり方に否定的というよりも、政治家にとってあまり利権(旨味)がないからか、あるいは、低投票率の方が、組織票に依存する政党や立候補者に有利だし、票数(結果)が読みやすいからでしょう。「無党派層」に大挙して投票所に行かれたら、たまったもんじゃありません(あとは費用対効果。労をとるに値しないというか、要するに面倒だと)。
とはいえ、罰金刑があるからしかたなく投票所に行くよりも、各自が自発的に投票する方がいいに決まっています。オーソドックス過ぎますが、まずは、政治家や政党が差し迫った投票テーマを掲げられるかどうか、それが投票する側の関心や問題意識と合致するかどうか、そうしたことを抜きに選挙をやっても、自分が一票を投じたところで何も変わらないという気持ちを増幅させるだけです。
結局それでは、対立候補が立つ立たないどころか、選挙をやる意味(必要)がない。感覚的には「無投票当選」とほとんど変わらなくなるでしょう。「落ちたらただの人」と言われる議員にとっては超楽ちんです。これが続いて代を重ねれば、議員はまさに「世襲貴族」でしょう。
投書主さんは、「僕は大学を出た人間ではない」と(わざわざ)書いています。それは、大卒ではない「から」と言いたいのではなく、「にもかかわらず」というのが真意でしょう。公的な発言をするには、相応の知識や学歴が必要という理解は、世間でなお幅をきかせているかもしれませんが、そもそも学歴=知識の等式は成り立ちませんし、もっと言えば、学歴=倫理の等式はそれ以上に成り立ちません。この方は、世の中に疑問を持ち、学び、問い続けることによって、自身を変えてきたという自負があるから、こうした記名の投書ができたのだと思います。大卒でないからこそ、職業が(正採用でなく)アルバイトだからこそ、(他より)見えていることが多々あるだろうとも想像します。
こうした投書に出会って、今朝は少し「よし、やるか」という気持ちがしました。
