「ペンは剣よりも強くあれ」を座右の銘としているとしても、(小生には)事実を超えることはとても書けそうにありません。ガザ地区の病院内の光景を知るにつけ、ある意味「想像すること」を拒絶するかのような自分がいる疑念というか錯覚もおぼえます(うまく表現できませんが)。
雑誌『地平』6月号の中に、ガザの医療システムが完全に破壊され、「臨床的死」に直面しているというルポルタージュがあります。今日はここから引用させてください。
……ザクート医師は言う。「私たちの病院はパンク寸前で、あらゆるものは底を尽きかけている」と。「不足どころではない。完全にないのだ」。
「床の上で患者を治療しています」
「私たち医師はいま、自らの素手と懐中電灯を頼りにしています。まるで中世のようだ」
アハメド・ハリル医師は、2023年10月7日からの540日間、爆撃を受けた病院を転々としてきた。
かつての病院、かつての診療所、かつての物資搬送の重要なネットワークとして機能していた場所はいま、野営テントや超過密する避難所、そして間に合わせの病棟が点在する荒廃した風景と化している。電気、清潔な水、ごく基本的な医療用品さえ不足している。包囲され、患者とともに標的にされながら病院に残る医師たちは、人間の能力をはるかに超える働きを強いられる。頼りと言えば、なけなしのガーゼと自らの意志だけだ。
それでも、医療チームは患者を助けるために、持てる力のすべてを出しつづけている。
「休む余裕なんてないですよ」とハリル医師は漏らす。「床の上で患者を治療しています。電気も麻酔もありません」
2024年3月、イスラエル軍がガザ市にある飛び地最大の医療施設アル=シファー病院を二度にわたって包囲した時も、ハリル医師は封鎖された病院で、患者らとともに数日間を過ごした。そこで、かつて活気であふれていた病院が、軍事目標へと変貌するのを見ていたという。
「戦車に囲まれ、上空ではドローンが飛び交い、電気もない。私たちは携帯電話の明かりに頼るしか術がなかったのです」
イスラエル軍はこの時、燃料や医療物資のほか、食料の供給も徹底的に遮断した。
「酸素吸入器が故障し、心電図モニターが消えたとき、ここがもう病院ではなくなったんだと理解しました」。アル=シファー病院で約10年間勤務してきた32歳の看護師、アムナさんはそう語った。「私たちはまさに、集団墓地が築かれつつある場所にいたのです」。
アムナさんは以前もガザでの戦争を経験していたが、その月に起こったことは、爆撃の規模も回数も、それまでとはまったく異なるものだったという。
「私たちは不可能な選択を迫られました。誰を最初に治療すべきか、誰を救うべきか。誰を手放すべきか。たくさんの人が亡くなったのは、傷が重すぎたからではありません。機械も場所も、助けるための手段も何も残っていなかったからです」
ハリル医師はその後、患者や職員、避難民らとともに、砲火の中の避難を余儀なくされた。とにかく南に向かう。壊滅した住宅街や過密な避難所なんとか抜け、彼らはガザ南部ハーン・ユニスで最後に残っていた医療センターのひとつ、ナセル病院にたどり着く。しかし、そこも、状況は「悪夢のようだった」。
「廊下は、出血した人々で溢れかえっていました。モルヒネも抗生物質もありません。時にはガーゼひとつ見つけることができませんでした」
集中治療室への入院を待つ多くの負傷者がいたが、医療チームは彼らを救うことができなかった。
「子どもから高齢者まで、多くの患者たちが、助けが来るのを待つ間に亡くなるのを見ました」
腹部に破片による重傷を負い、ベニヤ板に乗せられて家族に運ばれてきた20歳くらいの青年がいた。彼の記憶が、いまもハリル医師を苦しめつづけているという。
「病院には、レントゲンも手術室も痛み止めも何もありません。彼は、それから一時間もしないうちに亡くなりました。私たち医者は、救える方法を知っているんです。でも、彼を救うための手段が何ひとつなかった」
ハリル医師と彼の同僚が耐え続けてきた状況は、想像を絶するものだ。48時間、眠らずに手術をつづけることもあったと言う。「食べるものがないので食事はとれません。水を一滴も飲まずにシフトをこなすこともあります。家族が避難したり、埋葬されたりしている中で働くのです。治療に希望がないと分かっていても、それで試みます。なぜなら、そうしなければならないからです」
手術の最中、近くで爆弾が爆発し、ドローンの音と負傷者の叫び声が暗闇の廊下に響きわたる。「医療者もまた、負傷者を治療する負傷者です。でも私は、私たちの民が一人ぼっちで死ぬことを許したくない」。
(マフムード・ムシュタハ「ガザ 爆撃による医療崩壊」、『地平』2025年6月号、42-44頁)
