ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

二つのインタヴュー

 「改正障害者差別解消法」の施行から1年。今朝の毎日新聞に、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患いながら参院議員として活躍している舩後靖彦さんのインタビュー記事があり、興味深く読みました。元々は3月15日付の記事だったようですが、一部引用させてください(形式を少し変更してあります)。

「強い男性」だけでいいのか ALSの議員が指摘する国会の不健全性 | 毎日新聞


――国会の環境整備や合理的配慮はどのように進んだのでしょうか。

舩後 ハード、ソフト両面とも確実に改善されています。私の当選後、ハード面では本会議場と分館でスロープやエレベーターの設置・改修がありました。正階段には昇降機がつけられ、バリアフリートイレも新設されました。本会議や委員会で質問をするためにソフト面の合理的配慮も行われています。介助者の同席や秘書の代読、パソコンの電子音声による質疑などです。その場で再質問をする際、私は「文字盤」を通じて視線で発言内容を表現しますが、その間は質問時間が減りません。23年には電子音声を用いた初めての本会議代表質問も実現しました。……

――……、国会はどのような姿になるのが望ましいのでしょうか。

舩後 国会で働いて感じるのは、議員は「超人的に健康で、体力があって、元気な人ばかり」ということです。そういう固定観念が社会にまん延していますが、それは「生産性のない人は生きる価値がない」という優生思想につながってしまいます。人口の約1割は何らかの障害がある人です。国会議員700人あまりのうち、本来は70人ぐらいは障害のある議員がいてもいいはずです。当然、女性も全体の半数はいるべきでしょう。しかし、ごく一部の「強い男性」しか活動できないのは、国権の最高機関として健全とは思いません。

――国会外で課題と感じていることは。

舩後 学校や受験で合意的配慮の不提供や無理解があると感じます。医療的ケア児が修学旅行に行く際、夜間は「親が付き添うか親が看護師費用を負担する」という選択を迫られた例もあります。合理的配慮の意味が正しく理解されていないことが原因ではないでしょうか。「配慮」という日本語は、目上の者から目下の者に対して「配慮してあげる」というような、一方通行の優しさというニュアンスがあります。合理的配慮の原語はアメリカ障害者法などで使われていた英語の「Reasonable accommodation」で、双方が利益を損なわないように建設的な対話をして、一致点を見いだすという意味が込められています。「合理的調整」の方が相互の対等性を感じさせ、ふさわしいように思います。

 学校などはその典型だと思いますが、一律とか一斉というのは確かに「効率」的な面があります。40人から50人の生徒を同じ部屋に入れて一斉授業をするなら、個別指導するよりもはるかに少ない教員数で済みますし、評価もペーパー試験の結果を重視するならば、一斉に実施して回収し、採点すればすぐに成績評価が出せるでしょう。本当は個別に面談し、口頭試問なども交えて、一人ひとり評価をした方がいいはずですが、100人から200人近い生徒を担当して評価をしなければならない教員からしたら、そんな時間的余裕はあるはずもなしです。一律の指導というのも、制服とか頭髪とか、評判はよくないですが、集会で集まった生徒を一人ひとり関所を通過させて「違反」してないかどうかチェックする。不謹慎ですが、さながら「検品」みたいなものです。学校が毎年毎年生徒を卒業させて、上級教育機関や世に送り出す姿を、かつて「工場」になぞらえた方もいましたが、確かに品物を大量生産する工場と同じように見えてしまいます。でも、工場の製品とちがって生徒は「規格外」でしたでは済まないでしょう。生徒だけではありません。先生方の中にもこういうのに適合できない人はいます。
 服や靴などはお店にいけば規格品が売っていて、中にはオーダーメイドで注文する人もいるかもしれませんが、それは限定的で、場合によるでしょう。体形や足の形は今も昔も人それぞれですから、大量生産時代の現在であっても、みんながみんなMサイズやLサイズといった規格品が自分にしっくりくるはずもありません。大概は「こんなものか」というところで妥協します。一律一斉思考の背景にあるのは、おそらくこうした規格化とそれへの慣れ(馴化)でしょう。ある意味、その方が楽な面もありますから。でも、すべての人が馴化されるわけでもないのです。「(経済)効率」だけで世の中が回っているわけではありません。「生産性」のない人、「病気で、虚弱で、元気のない」人を「足手まとい」と見るような価値観は、さすがに現在は主流ではない(むしろ批判の対象)と思いますが、そういう想像が働かない人はまだまだ多いと言わざるを得ません。

 昨日の新聞には関西大学の三上純さんの「『体育嫌い』の声に寄り添って」というインタビュー記事がありましたが、これも興味深い内容でした。一部引用させてください。

やる気レシピ:「体育嫌い」の声に寄り添って 関西大・日本学術振興会特別研究員 三上純さん | 毎日新聞

三上 ……「体育嫌い」が注目される前段として、17年にスポーツ庁が策定した5カ年の第2期スポーツ基本計画があります。
 そこでは体育や運動が嫌いな子どもの割合を問題視し、運動やスポーツが嫌い・やや嫌いな中学生の割合を「16.4%から半減させる」という目標を掲げていました。
 運動が嫌いの中学生の割合はその後むしろ増加してしまい、22年からの第3期計画からは目標自体が消えました。……私たちが当事者に話を聞いても「体育で嫌な思いをした」という経験が、運動やスポーツそのものを嫌いにさせているような事例もあります。……
 高校、大学では陸上競技をやっており、学部生時代には体育教師を目指していました。「部活動やスポーツは良いものだ」と思っていました。
 ところが……井谷恵子・京都教育大名誉教授の授業を受けて、自分が「異性愛の男性」という社会でのマジョリティー性を帯びたまま体育教師になることへの疑問を抱き、研究の道に進むことになりました。……
 私たちの研究チームは、大学生を対象としたアンケートや、性的マジョリティーの女性・男性、LGBTQの3グループで集団インタビューを実施(しました)……。男性の体育嫌いの当事者からは、体育会系の「強い男性」から嫌な思いをさせられた経験談が語られました。体育行事の際に「(仲間が)お前じゃなかったらよかった」などと、できない自分を責められる体験でなく、「集団の中で自慰行為について話すことを強いられる」といったからかいや「いじり」が、体育の嫌な経験としてひもづいていたのです。

――背景には何があるのでしょうか。

三上 学校ではスポーツのできる・できないが一種の「男らしさも基準」になり、児童生徒のヒエラルキーに直結しています。「スポーツができると女子にモテる」といった異性愛主義に基づく価値観も浸透しています。
 一方、体育嫌いの女性からは「水泳の授業で、胸の大きな女子が男子からひそひそと言われているのが聞こえて、女性の体に負のイメージを抱いた」などの体験が共通していました。こうした女性へのハラスメントが起こる背景には、男性同士が社会的絆を結ぶ「ホモソーシャル」と呼ばれる構造があります。

――性的マイノリティーからはどんな声が上がりましたか。

三上 個人差はありますが、トランスジェンダーや非異性愛の当事者からは男女別の着替えや競技の種目分け、男女ペアのフォークダンスなどについて「苦痛だった」などの声がありました。
 指導方法をまとめた生徒指導提要は22年の改定で「性的マイノリティーに関する課題と対応」が加わり、一人一人の児童生徒の状況に応じた支援が必要だと明記されました。しかし、学習指導要領はLGBTQなど性的少数者について触れていません。「規範的な男女どちらかしかいない」という体育の前提の中では、性的マイノリティーの存在が無視されています。……

<以下略>

 小生も昔は学校に勤めていました。当たり前でしょうが、体育の先生で運動が苦手という人には会ったことがありません。その点は、他の教員も同じで、英語が苦手な英語の先生、数学が苦手な数学の先生というのも、まあ、中には「謙遜」か「ジョーク」でそういうことを言う人がいるかもしれませんが、ほとんど皆無と見ていいでしょう。
 学校の先生というのは、自省の意味も込めて言えば、その多くが学校で成績が良かったり、スポーツか何かで褒められたりといった原体験をもっている人が多く、自分の専門を不得意とする生徒や嫌いな生徒の気持ちにはなかなか思いが至らない面があると思います。ですから、相手がおかれている状況をよく確かめもせずに、「何でできない」「どうしてやろうとしない」などとわりと平気で口走ったりします。
 これは、基本的にどんな教科科目の担当の先生でも同じだと思うのですが、ただ学校体育はちょっと異質なところがあります(「体育会系」という言葉がありますが、個人的に少なからず軍隊の論理みたいなものが入り込んでいる面をたびたび感じました。まあそれはおくとして……)。その証拠ってこともないですが、ある先生がむかし、国語の先生がいる部屋は国語科準備室、数学の先生がいる部屋は数学科準備室というのに、なぜか体育の先生がいる部屋は「体育教官室」って呼ぶよね、と話していたことを思い出します。これで言えば、体育の先生(だけ)は「官」なのです。おそらく今でも自他ともに「体育教官室」に来いとか、行ってこいとか、そう言って違和感のない学校がまだあるのではないかと思います。体育の先生方には是非この「異質性」を省みてほしいのです。これは三上さんの上の話にたぶん通じるような気がします。

 学校の先生たちもいろいろと困難な問題を抱えて大変ですが、一元化された価値観が強者と結びつくことに、学校はまず自覚的(自省的)であってほしいという思いを強く持っています。



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