今日は昨日読んだ新聞のインタヴュー記事について書こうと思います。
毎日新聞は今年「デモクラシーズ」という民主主義について考える記事をシリーズで不定期に掲載しています。なかなかいい企画だと思っています。昨日は三浦瑠麗さんの話を載せていました。民主主義について考える以上、周辺事項も含め、様々な意見や考え方を読者に提示すべきとは思いますが、個人的にはもう少し「骨がある人」と申しますか、「最前線」で苦闘・苦悶している人の声を多く聞きたいのです。三浦さんの「ファン」だという方がもしいらっしゃるなら申し訳ありませんけど、端的に言って胡散臭いと感じる部分がいくつかありました(インタヴューを担当した記者さんも、言わせっぱなしでなく、もう少し突っ込んだ問を発してほしいです)。
デモクラシーズ:これまで これから 戦後80年 インタビュー編 山猫総合研究所代表・三浦瑠麗さん 民主制より精神の危機 | 毎日新聞
個人的に「胡散臭さ」を感じた部分を引用してみます。まず出だしです。
――――戦後80年。日本の民主主義の現状をどう評価していますか?
◆日本ほど民主主義が安定している国は他の先進民主主義国を見ても珍しい。例えば、韓国では大統領による「非常戒厳」の宣布がありました。一つのきっかけで民主主義が壊れるかもしれないという懸念は他国と比べて少ない。定着という意味で安定しています。
これは比較政治を専門にしている人がいたら是非うかがいたい気もしますが(何カ国にもわたる民主主義を肌身で比較できるようなスゴい人がいればの話ですが)、「日本ほど民主主義が安定している国は他の先進民主主義国を見ても珍しい」という発言(認識)には(乱暴すぎて)驚かされます。「民主主義の安定」というのは「定着」という意味だそうですが、政治制度のことなのか、人々の思想や行動様式の共有のことなのか、よくわかりません。
もし、(国民による)暴力(あるいは実力行使)を封じ込めているという意味合いならば、日本の場合、表面上は「封じ込め」ていると見えなくもありませんが、それを「民主主義の安定」と呼ぶには、もうワンクッション入れないと意味が通じません。これは援護射撃みたいですが、この点で三浦さんの「論」を好意的に推し量れば、たとえば、政治学者で思想史家の白井聡さんの『「物質」の蜂起をめざして』(ちくま学芸文庫)には、こう書いてあります。
……現代デモクラシーの中核をなす国家的制度としてのデモクラシー=民主主義が成り立ちうるために第一義的に必要不可欠なものは、民主主義への情熱や熱意といったものではない。決定的なのは、……一種の封じ込めの戦略であり、社会に分散している暴力・武力を封じ込める戦略が奏功するか否か――このことが国家的制度としてのデモクラシーの成立条件となる。人民の武装が放棄され、言論に闘争の場面が移されることにより、デモクラシーは現代のわれわれが常識的にイメージする形態のものへと転化することになる。言うまでもなく、言論による闘争の場の中核をなすものが議会であり、したがって議会は、実力による本来的な闘争との対比において擬似的な言葉による闘争が繰り広げられる場所となる。……
(白井、上掲書、230ー231頁)
(異議や反抗の)暴力を封じ込んで言論に向かわせる、それが民主主義の安定につながる――という話なら理解できます。ただ、この場合も暴力は「水面下」に押さえつけられているだけで、なくなったわけではありません。昨今のSNSによる誹謗中傷の惨さは、抑え込まれている暴力の捌け口にも見えますし、また、暴力が抑えられた代わりに、議会が言葉による「闘争の場」になっているかというと、どうも党利党略の駆け引き(取り引き)の場と化しているのが日本政治の現状のようにも映ります。この「デモクラシーズ」という企画には、こうした部分をもっともっと突っ込んでいくという趣旨があるように思えるのですが。
それから、三浦さんは、民主主義が壊れそうになった事例として、韓国で大統領による「非常戒厳」宣布があったことを挙げ、日本はそういうことが起こる「懸念は他国と比べて少ない」と言っていますが、むしろ、韓国の一般国民がこれを押し返すための行動をとったこと、また、抗議する国民に対して軍が発砲するなどの鎮圧手段(実力)を行使しなかったことに韓国の民主主義の「成熟」を見る向きもあります(小生はその一人です)。
もしかりに類似の状況に陥ったとき、日本の一般国民がまとまって声を上げられるのか、と考えると、SNSによる抗議行動は確かに一つの「戦術」ですが、その他、街角にプラカードをもって立って無言で抗議するとか、各自が思い思いの行動で抗議すればいいというのが「最大公約数」だとすると、権力側が強行突破する(できる)と判断すれば、「防波堤」は容易に決壊する可能性がある、というか、その可能性は高い気がします。韓国の民主主義は為政者が招いた「危機」を押し返したという意味で、むしろ国民の側が「安定」していたとも言えます。そう考えると、日本はどうなのか。三浦さんが、「他の先進民主主義国を見ても珍しい」ほど、日本の民主主義が安定していると言い切る、その根拠というか、「自信」がよくわからないのです。
こんなことも言っています。
――民主主義は危機にあると思いませんか?
◆私は全く危機ではないと思っています。
むしろ危機にさらされているのは、我々がよって立つ精神文化です。
……国政の前に社会にはさまざまな中間団体や宗教などがある。我々が真っ裸な個人ではない形で生きるための、さまざまな依拠するもの、愛着を抱くものがあったわけです。これが近代化やグローバリゼーションの進展によってどんどんスカスカになっていく。そうすると、政治領域が拡大します。
例えば、日本の家制度が戦後解体されて何が起きたか。「嫁」が解放された代わりに家族という手助けが得られにくくなった。都心で働くワーキングマザーが追い詰められるような状況になっているわけです。
家や学校や教会といった政治が介入してこない領域、ここがなくなったとき一気に政治を日常世界に流し込もうとするポピュリズム的な動きが出てくる。政治が社会に介入するような形で「こう生きろ」と言い出すことが起こりやすくなる。だから、代わりとなる精神文化を育むことは我々にとって大事なのです。
「家」を国家と個人の「中間団体」とみなすのはちょっと無理がある気がしますが(調べるとそう言っている人もいるみたいですけど)、まあ、それはともかく、その「中間団体」(という領域)には政治が介入して来ないという認識には驚かされます。亡くなった小生の父親は家でも学校でも毎朝「ご真影」(らしきもの)に敬礼していたと言っていました。三浦さんの言う「政治が中間団体に介入して来ない」というのは、いつの時代のことなのか。まさか、僧兵が怖くて朝廷が寺社に口出しできないとか、そういう時代のことを言っているわけではないでしょう。
さらにつけ加えれば、戦後の家制度の解体の結果について、「「嫁」が解放された代わりに家族という手助けが得られにくくなった」というのは、どういう状況をイメージしているのかわかりませんが、嫁も「女性の権利」「自立」などを考えずに、家制度に従っていれば姑(など)に助けてもらえたのに、という意味なら、そうでもない事例には事欠かないと思います。歴史家の吉見義明さんは、『焼け跡からのデモクラシー』という著書の中で、戦後直後の女性たちの日記を読み解きながら、時代精神を伝えています。以下の文は、敗戦時26歳で、高等女学校の国語の教員をしていた女性で、2年後に結婚し、子どもが生まれたばかりの頃の日記を引用しながら記述したものです。
……伝統的な男女役割分担などの意識を当時は「封建性」という用語で表現していた。……村の新聞に「家」についての原稿を出してほしいと頼まれた時、事実を書くと当たり障りが多いし、自分が解決できない問題を偉そうに書くのもどうかと彼女は思い悩んで、夫に相談すると、「書けよ。大いに啓蒙してやれよ」といって励ましてくれた(9月6日)。書き出すといくらでも材料が出てくるので、「封建性」の圧迫の下に喘いでいる女性に呼びかけたい気持ちで一杯になって一気に書きあげた(8日)。
九月の修学旅行には、浩志(生まれて8ヶ月の息子)を連れて京都・大阪・神戸を廻った。普段も、どうしようもない時には、何度か学校に連れて行ったが、「赤ン坊をしょって学校へ来る先生がおるぞよ!」という生徒の声が胸に突き刺さった(10月23日)。……
十一月には、姑が浩志の子守を放り出して、外出したので、やむなく欠勤した。この頃から、夫婦で姑との別居を相談し始めた。これまで「親、親たらずとも子、子たるべし」という道徳に縛られていたが、物事には限度があると思ったのだ(7日)。また、姑と別れることを考えると、心が晴れてきた。こうなれば恥も外聞もない。子守を雇うことも検討し始めた。しかし、まわりの反対があったためか、結局うやむやになってしまう。
(吉見、上掲書・下巻、岩波現代文庫、125-126頁)
その他、吉見さんの本では、戦後、日本の女性たちが家父長制とどう向きあってきたのか(葛藤していたのか)、あるいは嫁姑問題をどう乗り越えて生きようとしたのか、例を挙げながら考察されています(もちろん日記を残せた=書くことができた人の範囲内の話ですが)。
細かいことを言うと、三浦さんのインタヴュー記事には疑問な点がまだあるのですが、総じてタイトルにもなっている「民主制より精神の危機」の「精神」とか「精神文化」というのが、近代化やグローバリゼーションのせいでスカスカになっている、こちらの方が民主主義云々よりも危機的だというのが話のポイントです。しかし、それが家制度により育まれた「精神」だったり、毎晩パブに集まって酒を飲みながら議論をする中でつくられた「文化?」だったり、はっきり言って味噌も〇〇も混ぜこぜにして、聞き手を煙に巻いているような印象です。本気で三浦さんはこれを危機だと思っているのか、評論家然とすればするほど、小生には疑わしさが残るのです。
