先月の兵庫県知事選で当選した斎藤知事のSNS戦略を担った(関わった?)とされるPR会社の社長が、Noteに投稿した記事をきっかけに、斎藤知事の公職選挙法違反が疑われる事態になっています。公職選挙法という法律はケースバイケースというか、けっこう弁護士や関係者泣かせの面があるようで、たとえば、元財務官僚の山口真由さんがTVで話していたところでは、選挙事務所に支援者が来た時、インスタントコーヒーは出してもいいけれど、ドリップコーヒーはだめなんだそうで?、違反かどうかの線引きがどこにあるのか、素人にはちょっと判別不能です。
山口真由氏、斎藤元彦知事の選挙戦手掛けたPR会社は「公選法の知識がちょっと乏しかった?」 - 社会 : 日刊スポーツ
確かに公職選挙法が時代の変化に対応し切れていない面は大いにありそうですが、しかし、かりにそうだとしても、そこは法律です。違反してもやむをえない、ということにはなりません。今回の斎藤知事(とPR会社の社長)の場合、この「厄介」で「複雑」な公職選挙法の「怖さ」をどこまで認識していたのか大いに疑問ですし、その後の対応も、しっかり説明をせず、逃げの姿勢が目立ちます。知事は、PR会社には(SNSではなく)主にポスター制作を依頼し、あとは社長個人の自発的活動だったと言うのですが、それにしては、この会社の社長は選挙カーの上に上がって斎藤知事の演説の様子を撮影するわ(おそらく動画の配信もしたでしょうし)、単なる個人参加(ボランティア)と言うには(不釣り合いなほど)「大車輪」の活躍ぶりだったように見えます。件のNoteの記事の方は、騒がれて以降は何カ所も削除を施したようですし、社長自身も取材には「(弁護士から)言うなと言われている(は?)」の一点張りで、まともに応じていません。こんな証拠隠滅まがいのことをして、何も語らずではかえって怪しまれるでしょう。疑惑はますます深まります。
兵庫県知事選挙における戦略的広報:「#さいとう元知事がんばれ」を「#さいとう元彦知事がんばれ」に|折田 楓
「最後まで斎藤さんに配慮してもらいたかった」PR会社社長にあふれる憤慨…希望に満ちた「チャレンジングな1年」からの暗転 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
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……と先週、ここまで書いていて、先が進みませんでした。週がかわると、今度は別の事態が動き始めて、さらに驚きました。まず、自ら知事選に立候補しながら、自分には投票せずに、斎藤知事に投票するようにと言い続け(は?)、選挙期間中斎藤知事のアシスト役に徹していたNHK党の立花孝志氏が、その「応援演説」内でしゃべっていたことが、全く口から出まかせだったことを12月1日の動画で実質的に認める発言をしていました。具体的には以下の動画などをご覧いただきたいと思いますが、立花氏の話を真に受けて斎藤知事に票を投じた人は数多いと思います。これは、法に触れるかどうかはもちろんのこと、それ以前の問題として(つまり信義というか道義上)、許されるべきではありません。亡くなった局長の遺族や関係者をこの人は何だと思っているのか。
https://x.com/sxzBST/status/1863404986451058762
https://x.com/sxzBST/status/1863380609982198009
さらに問題なのは、立花氏は亡くなった県民局長のパソコン内にあったという情報をSNS上に公開してるようです。いったい立花氏は誰からこのような情報を得たのか。県が管理しているはずの情報が、だだ漏れしていたことになりますが、斎藤知事は調査のため第三者機関を立ち上げると言っています。3月に(県民局長による)外部通報が発覚した際、当時の斎藤知事は迅速に「対処」して、通報者を特定し、早々に懲戒処分を下しましたが、それと比べると、随分悠長な姿勢に映ります。すぐに、県警の協力を仰いだ方がよい気がしますが、これではまたしても「初動」を誤ることにならないか。
昨日12月2日、元検事で弁護士の郷原信郎さんと神戸学院大学教授の上脇博之さんが、斎藤知事とPR会社社長に対し公選法違反容疑(買収・被買収)の告発状を兵庫県警と神戸地検に送付したと報じられました。次々と事態が推移していく様は、さしずめ政治ドラマでも見ている(見せられている)ような気分になります。でもドラマを眺める傍観者の立場のままでよいのか。
今朝の新聞でジャーナリストで評論家の武田徹さんは「メディアの風景」というコラムでこう書いていました。
メディアの風景:「SNS公共性」の成立 報道の公共性と、どう接続=武田徹 | 毎日新聞
……社会に広く影響を与える性質を意味する「公共性」には二つの系譜がある。佐藤卓己・上智大学教授はそう指摘している。一つは17世紀ロンドンのカフェで新聞片手に政治などを議論し、公論を形成した人たちに端を発する「ブルジョア公共性」、もう一つが、祝祭やデモ行進に集まった人たちが世論のうねりを作り出す「街頭公共性」の系譜だ。
ブルジョア公共性が財産と教養を持つ富裕層の独占物だったのに対して、街頭公共性には参加障壁がない。……ナチの躍進は、政治参加の実感を広く提供して支持獲得の求心力とする一方で、集団的熱狂のうちに自己検証を怠りがちとなる街頭公共性の特性が反映している。……
(毎日新聞 2024年12月3日(火)第8面)
斎藤知事の返り咲きを支えた人たちの情報源や判断材料の多くがSNSや動画投稿サイトだったことから、テレビや新聞などの旧メディアよりもSNSの影響力が選挙の行方を左右すると言われています。しかし、これまで何度か書いているようにSNSというインターネット・メディアの「フラット性」は嘘も真実も混ぜこぜにします。専門家も素人もありません。一緒くたにしてガラガラポンです。情報は目前にあふれかえっていますが、この情報の真偽を見極めながら「海」を渡っていくのはなかなか大変です。自分にとっての「真実」が他人から「虚偽」だと指摘された場合(逆も含めて)どうしたらよいのか。しっかりと「泳ぎ方」を会得しないといけませんが、その「泳ぎ方」を知るのもだいたいはSNSなのです。
今度の兵庫県知事選もそうだったと思いますが、今まで自分が傍観していた政治や政治家がそうでなくなったときの当事者感、責任感は人によっては心地のよいものでしょう。それを刺激されれば、さらにボルテージが上がります。客観的には「集団的熱狂」に見えるような「波」に飲み込まれていたとしても、そんな自覚は微塵もないでしょう。集団内での一体感はいっそう心地よく、外部から批判する者はいっそう不快で煙たく感じられます。
民主政はさしあたって君主政や寡頭政よりはマシな政治制度かも知れませんが、最上かどうかはわかりません。忘れないでいたいなと思うことは、百年前に、世界で最も民主的な憲法をもつと言われた国にナチ政権が生まれたことです。それからすれば、全体主義と民主主義は必ずしも対関係にはないということでしょう。民主主義は個人を「封殺」することがままあります。
多くの兵庫県民には申し訳ない言い方をしますが、斎藤知事に関する一連の問題は他人事ではなく、「他山の石」としないといけないと思っています。