X(Twitter)を眺めていたら、作家の星野智幸さんが朝日新聞に寄稿した記事が話題になっていたので読んでみました。部分的には(共感ではなく)同感しますが、賛同や「(一読を)推奨」する声が多いのにはやや戸惑いをおぼえます。一部引用させてください。
言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸:朝日新聞デジタル
「リベラルは正義」という感覚
……。私は、自分が社会批評的なことを述べているとき、自ら世のリベラルな言説に合うように、もっといえば美味(おい)しく消費されるように盛りつけて差し出している、という嫌悪感をぬぐえなくなった。
それで理解に至ったのである。リベラルな考え方の人たちは、「正義」に依存しているのだと。
リベラルな考え方に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。自分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。
「日本人」というアイデンティティーが、「人種も生まれ育ちも日本だ」と思っている人にとっては、ごく自然で決して否定されない絶対的な真実だと感じられるように、リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ。いずれも、普遍の感覚によって自分を保証してほしいのだ。
「日本人」依存というカルト化が進んでいることに、11年前(引用者註:2013年12月に「「宗教国家」日本」という記事を朝日新聞に寄稿)の私は強い不安を覚えたわけだが、じつは同時に、ずっと小規模ながら「正義」依存のカルト集団もあちこちに形成されて、その依存度を深めていったわけだ。
個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている。「正義」依存の人同士で、自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒やしている。私が自分の発言に無意識に制限をかけていたのは、その居場所を失って孤立することを恐れたのだろう。「正義」依存者であれ「日本人」依存者であれ、そもそもは弱って自分一人ではどうにもならない苦境から脱するために居場所を必要としたのであり、そこには理がある。問題は、その居場所が無謬(むびゅう)化していくことだ。
無謬性掲げ攻撃しあう虚しさ
無謬とは、間違いがない、という意味である。カルトの本質は無謬性にある。教祖が掲げた教義を、信者たちは決して疑ってはいけない。無謬性に完全服従し全身を預けることで、自分も間違いのない存在だというお墨付きを得る。絶対的な真実だから、それを批判する者は排除してよい。
それぞれのカルトが、そうして無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが、この世の現状なのだろう。この状態はもはや民主的な世界ではない。
民主制とは、それぞれ考えや気分の違う者同士が、互いに耳を傾け、調整して制度を作っていく仕組みだ。政治とは、自分たちの正しさ競争ではなく、話し合いで合意するための手段である。
けれど現状は、政党が、そこに所属したり支持したりする人にアイデンティティーを与える集団へと変質しつつある。政党が居場所化し、カルトに乗っ取られようとしている。旧統一教会と自民党という例だけでなく、立憲民主党も左派の「正義」依存のコミュニティー化しかけている。だから、依存者のゆがんだ認知で現実を見てしまうし、政党の目的である対話の場をうまく作れない。作っているように見えたとしたら、それは同じ考え方の者たちが集って共感し合う居場所であり、価値観の異なる者と制度を作るための対話の場にはなっていない。
それにしても、誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している現在は、どれだけ殺伐としていることか。あらゆる発言が攻撃できるか感動できるかで消費される状態では、対話はおろか言語も成立しない。そこに呑(の)み込まれたくなければ、文学の言葉を吐くしかない。他人に通じるかどうかも定かではない、究極の個人語だから。私はそうした発話にのみ、未来を託している。
「リベラル」の定義づけにもよりますが、小生も自分は「リベラルな方だ」くらいの認識はあります。けれども、世間の出来事や物事を判断するときの規準や立場としてリベラルな見方をすることはあっても、それが絶対的正義とか、「無謬なる正義」と確信するほどの「信者」ではないので、それは時と場合によると思っています。たとえば、マイナカードは任意だと決めたのに、健康保険証や運転免許証などに紐付けて実質強制しようとするやり方には腹が立ちますし、沖縄県民が県民意思として反対する辺野古の基地工事を有無を言わさず強行する政府の姿勢も同様です。他方、外国人の富士登山や京都観光はもっと規制すべきだと思いますし、小学生の子どもにスマホの類いを持たせることにも違和感があります(こういうのは反リベラルじゃないですかね 笑)。
あまり詳しいわけではないですが、リベラル思想の歴史を考えてみても、社会主義が支配的な時代や国だったら、リベラルはブルジョワ思想として排撃されたでしょうし、軍国主義や全体主義が支配的なら、当然リベラルは利己主義=危険思想とレッテルをはられ、やはり攻撃されたでしょう。新自由主義が席捲したあとの現在であっても、リベラルが「無謬なる正義」と認識するのは、よほどの思い入れがないと無理でしょうから、星野さんがそのような人たちを「カルト」になぞらえるのもわからないではありません。
星野さんの所論が共感を呼んだのは、(カルト同士で)無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが現状だという部分でしょうか。確かにXを眺めていると、その種のやりとりが多くてしばしば閉口します。誰とは言いませんが、Xを舞台にした「論破」競争を見てると、リング上の罵り合いに勝ち負けをつける、むかしTVで見た覚えのある番組のイヤーな光景を思い起こします。TVの方は、娯楽的ゲームだからと、まだ辛抱できますが、Xの方は独善的な言い争いに陥りがちで、大真面目(真剣)にやっている分、周囲に与える影響(害毒)は大きいと思います。
しかし、星野さんの結語はどうにもいただけません。思い込みや誤解があると嫌なので何度も読み返しましたが、星野さんは「誰もが」と表現できるほど、どれだけ多くの人に接して、「(みんな)自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している」と判断したのでしょうか。しかも、最後の一文は、カルト同士が正義を振り回す「殺伐」とした世界はもうまっぴらなので、今後は文学の言葉(世界)でしか発信しないと言っているわけで、これは一時的な「塞ぎの虫」と考えることはできず、ある種の「撤退宣言」と読めます。
小生は最近のブログで店頭に中国人・韓国人の入店を拒絶する文言を掲げる飲食店は明確な差別をしているので、これを放置してはいけないという主旨の投稿をしたことがあります。店のSNSには差別的言辞を批判するリプとは別に「こういうのもありだと思う」と是認・擁護するものが少なからずありました。小生にしても、全くリベラル的な正義感がないとは申しませんが、しかし、ブログにも書いたように、かつて学校で接してきた中国人、韓国人の子どもがこれを目にしたらどんな気持ちになるかと想像しないわけにはいきませんでした。このような文言を掲げた店主にしても、もし、中国人や韓国人に一人でも二人でも気持ちよく付き合っている仲間がいれば、中に不心者がいたとしても「中国人」「韓国人」などと一括りにして「入店禁止」と書くのは躊躇したと思うのですが、星野さんはこういう問題に今後どういうスタンスで臨もうとしているのでしょう。
むかし某政党の関係者が、何かあると「確信を持って(取り組まなければならない)」というフレーズを繰り返していたことを思い出しました(今思うに、自身に言い聞かせる呪文だったように思えます)。「確信」なんか持てないよという想いを老齢になっても持ち続けている小生には、星野さんのような方にこそ、今後も社会的発言を続けてほしいと願うばかりです。
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