ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

音楽教室の著作権料判決のこと

 音楽教室のレッスンで演奏される曲に著作権料は生じるのか。10月24日、最高裁で「生徒の演奏については、教室が著作権料を払う必要はない」とする判決が出されたという新聞記事を見ました。小生は音楽の素養がないので、音楽それ自体はもちろん、業界についても知らないことばかりなのですが、この記事を読み、著作権など「知的財産権の保護」と呼ばれるものについて、少し考えました。
音楽教室著作権料 「生徒演奏徴収できず」 最高裁判決 | 毎日新聞

 最高裁が、音楽教室における生徒の演奏と教師の演奏は異なり、生徒の演奏に著作権料はかからないとした高裁判決を支持したのは、生徒の演奏が、生徒自身の技術向上を目的とし、課題曲を演奏するのはその手段であって、教師が課題曲を選定して指導したとしても、生徒はあくまで自主的に演奏しており、演奏の主体は音楽教室ではなく生徒本人と解することによるのだそうです。しかし、この「理屈」、正直言ってあまり釈然としません。生徒を、教師とはちがう演奏主体としたいがために、自主的に演奏していると強弁しているようにも思えるからです。もちろん演奏=練習するのが嫌なら、生徒は教室に来ないでしょうから、その限りでは「自主的」なのかもしれません。しかし、演奏することが自主的とみなせるかというと、そこは複雑で、生徒が自宅で一人で演奏していれば、文句なく自主的でしょうが、同じ意味で、教室で教師の監督下に、教師が選んだ曲を、教師の指示で演奏している生徒の行為を「自主的」とみなせるかというと、そこは疑問なしとはしません。判決=結論自体は妥当だとしても、もう少し線引きを明確にしてもらった方がわかりやすかったように思います(教育としての演奏行為とか)。

 この裁判のきっかけとなった今から5年前の2017年、日本音楽著作権協会(JASRAC)が音楽教室への著作権料支払いを提起したとき、「音楽は音を楽しむモノなのに、金の音しか聴こえない」という辛辣な批判がTweetに上がったようですが、音楽ソフト産業の売上げが下降するなか、新たな収入源として音楽教室に目を向けたJASRACの姿勢には、小生も当時疑問を抱いた記憶があります。
 以下は当時、ITジャーナリストの神田敏晶さんが書いた記事ですが、業界の体質をよくとらえているように思います。要約して引用させてください。
音楽教室からも著作権料というJASRACは「音楽」を活かすのか?(神田敏晶) - 個人 - Yahoo!ニュース

 音楽ソフト産業は1998年をピークに落ち込み、低空飛行となったが、ライブコンサートはずっと右肩あがりだ。日本音楽著作権協会(JASRAC)は、2000年代、CDの売上減少分を、著作権料その他で補っていた。といっても、音楽著作権料が分配されるアーティストは、非常に限られたごくわずかな、トップセールスの作詞者、作曲者、音楽出版者だけだ。しかも、この数年、音楽ソフトと同様の横ばいである。そこで、新たな金脈として目をつけたのが、音楽教室である。
 矢野経済研究所の調べによると、「お稽古・習い事」の市場規模は1兆9699億円(2015年)で、音楽教室はその5.2%、つまり1,024億円と推計できる。
 この音楽教室市場にJASRACが設定する演奏権率2・5%を乗ずると25.6億円となる。JASRAC規定の演奏等の手数料は26%なので、6億6,560万円はJASRACの手数料収入に、18億9440万円が、作詞者、作曲者、音楽出版者に分配されることになる。

 現在の音楽教室では、著作権切れのクラシックの音楽もたくさん演奏されているだろうし、年間受講料収入の一律での2.5%という金額徴収も果たして妥当なのだろうか? これを文化庁が認めてしまうと、音楽教室は受講料に上乗せする可能性もでてくる。著作権法は、音楽に課せられた税金ではない。クリエイトした人たちの権利を守るための法律だ。むしろ、日本の音楽の「文化」を考えた場合、現在の限られた媒体のヒットチャートによるデータをもとに分配されれば、一部の音楽家の「富」を増やすだけである。音楽を愛し、音楽を支え、教室にお金を払って、プレイを楽しむ人たちに、間接的な著作権料を課すよりも、むしろ「二次利用」をふくめた創作演奏の権利などを付与したほうがよくないだろうか? リスペクトする曲に、自分の新たな音楽性をクリエイティブすることによって、新たな音楽の次世代ビジネスモデルを構築することができるかもしれない。いろんな二次創作が登場することによって、楽曲利用のチャンスも増えるのだ。
 音楽カバー曲だけでなく、二次創作可能曲という音楽ジャンルをJASRACが仲介できる機能が持てれば、さらに結果として著作権手数料も増えるし、新たな二次創作者にも著作権料が分配される。共有されればされるほど損をするのではなく、得をする音楽業界にしなければ、この音楽ソフトの頭打ちを回避することはできない。音楽ソフトタイトルが売れなければ音楽を消耗させるばかりだ。EDMにボーカロイドにいたるまで、かつての日本の名曲を蘇らせ、新たな解釈がパクリと呼ばれるのではなく、二次創作作品として正規に流通するプラットフォ−ムは実現できるはずだ。すでにYouTube等ではカバーした楽曲からも、著作権料が分配されるようになっている。誰が音楽を殺すのか?ではなく、誰が音楽を活かすのか?と説いてみたい…。

 巨大産業と化した音楽業界が、売上げが減少するなか、収入源を求めてあれこれ思案するのはわかりますが、音楽教室著作権料を課そうとするのは、音楽に関わろうとする人の門戸を閉ざし、結果的に裾野が狭められることにつながりかねない、もっと別の方法があるのでは、という指摘には、門外漢ながらそんな気がします。

 しかし、この音楽における著作権には、より本質的な問題もあるように思います。歌も演奏も、今や一人でも楽しめる気軽で身近なものとなりましたが、音楽の原点には、やはり “みんなで” というのがあるように思います(これは美術品や文学作品などと比較するといっそう個人性が薄い気がします)。音楽ソフトの売上げが落ちても、ライブコンサートの収入がずっと右肩上がりなのは、おそらく音楽に固有の “集団” 性が関係していると思います。
 楽器があってもなくても、誰か一人が歌い出すと、それに周りが合わせて歌い出したり、手拍子をしたり、足でリズムをとったり……。これは今でもそうかも知れません。学校の帰り道、あるいは作業の最中、船の上で、ご飯が終わった昼休みに、等々。音楽が制度化される前は、最初は誰かが即興で歌い出したものが、時々歌詞を入れ替え(適当にアレンジされ)たり、多少音がずれたりしたものが、かたちをなしてきたかも知れません。これを音楽の原風景ととらえるのは単なるロマン主義だとの誹りを受けるかも知れませんが、民族音楽の研究で世界を巡った小泉文夫さんが『音楽の根源にあるもの』という著作でこのようなことを書いていたと思います(手元に本がないので断言はできませんが)。
 それがいつしか音楽が商業ベースにのり、作詞者や作曲者といった個人が明確化され、作った歌で「創業者利得」が得られることが認知されると、これを財産とみなす著作権なる考えが派生し、さらにそうした事例を個人が逐一管理するよりも、団体が代理として管理した方が得策だという話になって、「著作権協会」のような組織が立ち上げられたと想像します。
 しかし、どんな個人がつくった歌や曲であっても、長い年月に渡って歌われ、演奏され、みんなの耳におなじみになれば、それは個人の財産という範疇に収まらず、共有財産といってもよいはずです。童謡や民謡に著作権を云々するのはナンセンスだし、バッハやベートーヴェンの曲に今さら当人の著作権を言っても意味がありません。では、近年の曲や歌はどうするのか。どこで線引きができるのか。作者の生きている間くらいは利権を保護すべきだが、さて法人が権利をもったらどうするか。また、他の財産と同様にそれは子孫に相続できるものなのか、云々……。そこにいくつかの条件付きで割り込んできたのが「著作権」とか「知的財産権」という考え方なのだと思います。
 もちろんこれを全否定をするつもりはありません。しかし、私有財産が共有財産に転化するような世界で、「私有財産の絶対不可侵」のようなスタンスをとって、利得のために事態をいびつにするのは避けなければいけません。でないと、結局神田さんが言うように、一部の関係者の富を増やすだけになって、音楽界全体として地盤沈下を招くことになりかねません。そもそも自分に才能があっていい曲やいい詩が書けたと思うような人がいたら、そういう人ほど、自らのその才能という「私有財産」に歴史や文化という「共有財産」が注ぎ込まれていることを認識しないといけないと思います。
 何はともあれ、「音楽文化に大きく影響を及ぼす可能性があった」この裁判、穏当な判決でよかったと思っています。




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