講談社のオンライン誌「クーリエ・ジャポン」には、外国の記事がいろいろと翻訳・紹介されていて興味深いのですが、読んでいると、彼我の記者の視線のちがいを感じることがあります。おそらく記者の背後に広がる社会が日本とはちがうからでしょう。それは社会と国家は別ものとする意識と言えばよいのか、あるいは、上からの集団化(団結圧力)と下からの社会的連帯の度合いと言えばよいのか、要は個々の人を社会や世間がどう支えているかのちがいによる気がします。
個人的な印象なのであてにはなりませんが、いくつかの例外を除けば、外国の記者たちは、概して、為政者が社会的弱者を守らない行為や発言をすると、厳しく批判する記事を書きます。日本の記者たちだって厳しいことを書くことがありますが、あとで政治権力やそれに同調する人々からバッシングを受けないか…とか、どこか恐怖や不安がつきまといます。たとえ、バッシングされ、窮地に立たされたとしても、外国では(括り方としては乱暴ですが)、ある程度は会社や記者仲間から守ってもらえる信頼感があるでしょう。人権侵害だということになれば、人々は街頭で抗議の意思表示もします。一方、日本ではTwitterデモのようなことはあるかも知れませんが、それほど守ってもらえるあてがあるわけではなく、個々の記者や会社は「人に迷惑をかけない」式の論理によって危険回避や自己抑制に動きがちに見えます。
記者や特定メディアに対するバッシングを傍観するような態度がジャーナリズムの世界に目につくようになったのは、おそらくここ10数年の話で、少なくとも久米宏氏や筑紫哲也氏が夜のテレビ番組でニュースキャスターをしていた時代以前には、そういうことを視聴者が感じることはなかったと思います。記者がバッシングや孤立を怖れ、総じて批判力が鈍ることと、社会的弱者が孤立感を深めることは同根、あるいは、相乗効果があるように思えます。
安倍氏殺害事件の背景について、「南ドイツ新聞」の記事(主にトマス・ハン記者による)を紹介した「クーリエ・ジャポン」の記事は、ジャーナリストの孤立を論じたものではありません。しかし、記者が記事のなかで、日本社会は弱者に冷たいとか、自己責任論と同調圧力が強いとか、日本の人は社会に対する関心が薄いなどと特徴づけられるのは、記者はそれとは異質の社会を知っていて、それと比較しているからです。以下、7月16日付記事をまとめたものの引用です。
独紙が分析「安倍元首相を殺したのは、日本人の社会への関心の弱さ、弱者への救済の少なさだ」 | 犯人を蝕んだ同調圧力と自己責任論 | クーリエ・ジャポン
弱者に冷たい日本社会
安倍元首相殺害の犯人である山上徹也容疑者は、「母親が統一教会に多額の寄付をし、家族が崩壊していたため、統一教会のトップを殺したがっていた。だがそれが難しかったため、宗門とつながっているとされる安倍晋三を狙った」とされる。何が彼をそのような行動に掻き立てたのか。「彼が殺人犯になったのは、その不安定な人生がどうなるのか、誰も疑問にせず、気にかけなかったからだ」。
今回の事件は、「制度に馴染めず、挫折した独身男性が、その不満をどうしたらいいかわからず、他人を攻撃する」という近年相次ぐ殺傷事件と類似する。2016年の相模原障害者施設殺傷事件、2019年の京都アニメーション放火殺人事件、2021年の京王線殺傷事件などがその例だ。
このような事件を引き起こす根底にあるのは、日本の社会のなかで、孤立する人がおり、彼らを救済する仕組みがあまりないことだ。「集団社会である日本では皆が社会に奉仕する自分の仕事をすることで、全体がうまくいき、誰も邪魔をしない。そこでは比較的スムーズに生活ができるが、人と違ったり、成功しなかったり、ルールやヒエラルキーに適応できない人は、このシステムのなかですぐ孤立する。個人的な苦労や悩みを相談できる場もあまりない」
実家が破産していた山上容疑者は、職も転々としていたことから社会にうまく馴染めていなかったようだ。フォークリフトの運転手として働いた最後の職場でも、人と違う考え方をし、違うやり方に固執した。「彼は独自の方法で荷物を積み上げ、会社の標準的な手順でやるべきだと言う同僚と対立していた。ルールが厳しい日本では、そこから簡単に逸脱することはできない」。
孤独を生む自己責任論と同調圧力
社会のサポートシステムが充分ではない「日本では、家族がもっとも重要な支援を提供する。たとえば社会的困窮者に対しても、まず国はその人を助けられる親族を探し、家族で解決させようとする。しかし山上の場合は家庭が崩壊していた」。そのため彼を救えるものはなかった。
宗教に傾倒したという山上容疑者の母親も、「夫を失い、建設会社を継ぎ、3人の子供を養わなければならなかった。一人で働く親への支援が少ない社会の中で、彼女は明らかに何らかの支援を求めていたのだろう」。統一教会に惹かれた背景には孤独があったはずだ。
「我慢するように育てられる日本人は、生計を立てるために多くを我慢して暮らし、不満を言わない。しかし、ある一線を超えると人々は非常に感情的になる」。「その孤独のなかで破壊的な計画を立てる者もいるかもしれない」。孤立し、我慢続きだった山上容疑者は、破壊的衝動を次第に高めていったに違いない。
日本は多くの美しさを持つ一方、狭苦しくてモノトーンで、「都市は商業に支配され、無表情だ」。都市は「同じような家屋に埋め尽くされ、集団社会による全体の構造への同調圧力があり、問題は自分と家族で解決することが期待される」
無機質な中で、人の助けも充分には得られない都会。そこでは人と同じようにやることが求められ、一方でシステムから外れて問題を抱えると、自分達で解決しなくてはならずに困窮しがちだ。
社会に関心がない日本
ここでいう日本のシステムとは、「会社の期待通りに働き続け、何があっても何も言わない」ことだ。日本の仕事は、「旧態依然としたヒエラルキーのなかで、勉強したことにはかかわらず、会社に自由に配置される従順な社畜」になるか、「安価な派遣契約」で働く労働者になるかが多い。どちらにしても暮らしにくいオプションだ。
安倍元首相はさまざまな戦略を実行したように見せかけていたが、日本の「人々が暮らしやすくなるような制度改革はなく、人々の不満にも感心を示さなかった」。
「無関心、お金の追求、それらは多くの国で社会を蝕んでいる。しかし、日本ではそれらが少し極端に出てしまっているようだ」。というのは「日本人は、実はほとんど集団社会に奉仕する仕事にしか興味がなく、社会的な議論やマイノリティ、隣人などには関心がない」ためだ。……
しかし、そうでない社会があるのだったら、日本社会だってこのまま変わらないと過度に悲観したり卑屈にならなければならない理由はないように思います。そういう希望(だけ)は変わらずもっています。
重複する部分がありますが、7月13日付記事も興味深いので、以下に付します。
独紙が分析する、安倍晋三亡き後の”あまり明るくない”日本の展望 | 浮き彫りになった課題を解決できるか | クーリエ・ジャポン
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