ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

千葉雅也『現代思想入門』を読んで

 ネットで評判になっていた本で、中には「絶賛」している人も見えたので、読んでみたのですが、フランスのフーコーはともかく、デリダドゥルーズは何となく「やり過ごして」きた面があるので、著者の独自の読み(解釈)とはいえ、「二項対立」や「差異」の理解については、補助線が引けて率直によかったなと思います。また、本旨からは外れますが、末尾に付録として、テキストの読み方(技術)の指南があって、外国語の翻訳文につきまとう違和感への対処や論旨の追い方は非常に参考になりました。「絶賛」とまではいきませんが、これから「現代思想」を学ぼうと思う人にはよい道案内になると思うところ大です。門外漢ゆえに論旨に即したことを評価できないので、その「周辺」の雑事で思ったことを記します。

 読み終わって改めて思うのですが、「現代/思想」とは何なのかなあと。今回著者が取り上げた20世紀フランス思想界の著名人たちを「思想家」と呼び、彼らが世に問うた著作の内容を「フランス現代思想」と括ることに慣れてしまっているのですが、これを「哲学者」とか、「フランス現代哲学」と置き換えても、個人的には何の違和感もありません。むしろ、そちらの方が好ましいような気さえします。「差異」の話ではありませんが、「哲学」と「思想」とはやはりどこか違っていて、これは小生個人の勝手な解釈ですが、「思想」にはもちろん哲学の要素もありますが、それとともに、個々の社会や集団がもつ「行動規範」や「信仰」といった、理屈以前の要素が何重にも入り込んで全体を形づくっているというイメージがあります。このあたり、何か整合的に(理屈で)処理していることがあるのか、著者だけでなく「現代思想」にかかわる人たちのお考えを知りたい気もします。

 それから、これも本旨それ自体とは関係ないのですが、上の「現代思想」とのからみで言うと、フランス思想とその派生群をもって「現代思想」と言ってしまうのは、そろそろ止めにしないといけないように思うのです。20世紀の思想・言論界はフランスが実質的にリードしてきたというのは、そう思う人たちにとっては「真理」かもしれませんが、決して検証できた話ではありません。むしろ、そう思わされてきた「弊害」の方に関心を向けないといけないのではないか。そもそも本書のベースになったのは、著者が大学で行った「ヨーロッパ現代思想」という授業だという話ですから、『現代思想入門』ではなく『ヨーロッパ現代思想入門』というタイトルにした方が、内容的には忠実だし誠実であるような気がします。しかし、それが出版段階になると、何かの都合(誰かの意思)で、「ヨーロッパ」という地域限定が外され、「現代思想」という「大風呂敷」がかけられて覆い隠されてしまう。本書に出てくる登場人物たちのほとんどはヨーロッパの人ですが、すべてではありません。しかし、では、たとえば日本の人で誰が出てくるかといったら、東浩紀さんくらいなのです。これは本書の視線と腑分けだけでなく、人文系の研究者に対するわが国の視線、その助成を減らしてきた近年の文教政策のゆえではないかと、つまり、日本の斜陽化は経済だけでなく、言論界・思想界でも同じなのでは、と疑いをもってしまいます。

 著者は40代に入る節目で、すでに自分の中では「飽和」した感じのある現代思想への見方や理解をまとめることにしたと書いています。新書だから書けた部分と新書では書けない(書き切れない)部分は当然あったろうと思います。どういったかたちでも自分の仕事を人が賞賛してくれるのはうれしいことで、偏屈で曲がり者な小生であっても賞賛は惜しみません。しかし、著者が料理人だとすれば、腕の見せどころであるメインディッシュはやはり別にあるのではないかと思います(今回は素材と料理法の話をしたというところでしょうか)。そのメインディッシュの本当の味(真髄)がわかるように、まだまだいろいろと食べないと(読んでいかないと)と思います。

講談社現代新書 2022年3月 245頁]








↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村