ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

善悪二元論的報道へ

 ロシア軍の侵攻から40日余が過ぎてウクライナ各地の状況が次々と明らかになり、世界中からロシア・プーチン政権を非難する声が上がっています。この目を背けたくなる惨状を見たら、誰でも当然のことと思います。ウクライナのゼレンスキー大統領は、破壊された国土を視察し、国連はじめ国際世論への訴えや働きかけに精力的に取り組んでいます。しかし、ふと思うのは、国民に危ない(渡れない)綱を渡らせて、結果的に(まだ終わったわけではありませんが)国民にも国土にも、これだけの深い傷を負わせてしまったことを、彼は大統領としてどう感じているのだろうかという疑念です。

 ウクライナは国外でロシア軍とは一切交戦していないのですから、これはウクライナにとっては紛れもないロシアの侵略に対する防衛戦争です。いくら、ロシア側が「自衛」や「ロシア人保護」などを御旗にして、やむを得ない戦いだったと言い張っても、ロシアがウクライナを “侵略” した(している)という事実は動きません。その意味では、この惨禍の第一かつ最大の責任はプーチン大統領にあります。
 しかし、ロシア軍の侵攻が始まって、ウクライナ軍だけでなく市民にも武器を取って戦えと、女性と老人・子どもを除くウクライナ男性の出国を認めないと言ったのはゼレンスキー大統領です(実際には女性たちも含めて出国せずに武器を手にした市民は大勢いました)。これではウクライナの市民もロシア軍の標的にされてしまうのではないかと、不安がよぎりましたが、それは小生のような「平和」な日本で生きている人間の暢気な反応なのかもしれないと、その時自らすぐに打ち消しました。しかし、今さらながら、その時の疑念が再び頭をもたげます。
 
 半世紀前、ヴェトナム戦争では、ゲリラ兵が一般人に紛れ込んで区別がつかないため、米軍は村ごと焼き払うという暴挙に出て批判されましたが、これは今回のロシアも同じで、ロシア軍からしたら、ウクライナの一般人が自分たちを攻撃してくるのだから、兵士と市民の場合分けなどと言ってられないと。百歩譲ってロシア側に、兵士と一般人を区別して、一般人には一切危害を加えないという「ルール」に則った戦い方の選択肢があったとしても、チェチェンやシリアなどでロシア軍が行った無差別空爆から推察するに(何人かの専門家が指摘していたとおり)、今回のウクライナ侵攻で、その「選択肢」が採られると予想(期待)するのはあまりに都合のいい願望でした。「未必の故意」ではありませんが、ウクライナの中枢は当然予想できたことを斟酌せず(いや斟酌した結果、あえて)突き進んだ面があるのではないか、その意味で、ゼレンスキー大統領も “無実” では有り得ないと思うのです。

 もちろん2月の北京オリンピックの開会前から状況は逼迫していたし、ロシアと交渉の余地があったのかという疑問は当然あります。今まだ帰趨もわからないのに、これが渦中で投げかけるべき疑問かどうかというのもあります。しかし、プーチン個人の狂気や異常さばかりでこの戦争を語るのは、腹いせのレベルならばともかく、あまりに単純・短絡すぎると思います。
 この戦争で亡くなった人は帰ってこないし、直接巻き添えにされた人たち、深い傷を負った人たちは、この後、自身を鼓舞して、生活を、街を、 “復興再建” し、元の暮らしを取り戻していかなければなりません。当然お金もかかります。法律上の責任は賠償をともないますから、責任の所在や程度を確定しなければなりませんが、それを逆立ちさせて、責任の所在や程度が軽かったり曖昧だったりして法的責任が問われなかったからといって、その人に責任がないとか、悪くないということにならないのは、現実社会を生きていれば当たり前の話です。

 二進法の世界では物事には白と黒しかありません。しかし、現実社会には赤も青も黄色もあります。さらに濃淡やグラデーションもあるかもしれません。現在のメディアの善悪二元論的報道では、独裁やナチのことになると、ほぼ一方向から批判・断罪する論調一色になるのが常ですが、その独裁やナチの温床こそ、この二進法的思考です。これがこのまま続けば、停戦交渉などで、まとまるはずの話もまとまらなくなるかもしれません。報道人には、一歩も二歩も距離をおいて、木も見て森も見る、複眼的な報道を是非お願いしたいと思います。



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