「対話が続いている間は殴り合いは起こらない」というドイツの言葉があるそうです。なるほどと思います。この言葉を心に留めた筆者は、やがて「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話だ」と考えるに至ります。平穏な日常を下支えているのは、暴力的な衝突に至らないように対話を続け、その態度、その文化を社会に根づかせようとする人々の努力であり、もし、社会から対話がなくなれば、社会は病んで、平和はあるときあっけなく崩壊するのでは、と言います。
いくつか引用してみます。
日本人が、意見を言おうとしないのは、あるいは、他人が間違っていると思うことにも異を唱えず無言でいるのは、もし自分の言ったことが正しくない場合には、恥ずかしい思いをする、他人に大人げないと思われる、恨まれる、バカにされる、後でうわさや陰口にタネになる、黙っているほうが思慮深く思われて賢明だ、何でも口に出して言うのははしたない人間だ、日本の社会では集団の決定に従うのが当たり前で、それに対して意見を言うのは損だ、などというのが、日本社会の相場になっていました(ところが、そういう人がヅケヅケものを言うのは自分より下位にある人に対してであり、何を言っても仕返しされる恐れはないと確信するや否や、ネコがネズミをいたぶるような、非人間的なものの言い方をするのです)。
(74-75頁)
イギリスの大学生に「教養とは、あなたたちにとってどんなものですか」と聞いたことがあります。「見知らぬ人の間に入っても、友人を作ることができる能力です」という答えが返ってきました。対話を成り立たせているのも、ある種の教養かもしれません。
(83頁)
権力による画一的な抑圧があるところに自由で多様な対話はありません。権力とは政治権力のことだけではなく、利潤第一を求める効率の強制力のこともあるし、望まないのに電子機器を使わざるを得なくする教育環境のこともあります。家族の中の、あるいは学校の中の大人の一方的な押しつけが権力であることもあり、その極端なものは暴力による制裁でしょう。体罰の中に対話はありません。
(111-112頁)
テーマを終わらせたり、最終的な回答や解決を与えるために応答するのではありません。応答することで、いま話し合われていることに、さらに広い見通しがもたらされることが期待されているのです。……バフチンの対話についての思想の中心的位置を占めるのは、応答性です。
「言葉にとって(ということは人間にとって)応答の欠如よりも恐ろしいものはない」「聞かれる、ということそのものが、すでに対話的関係なのである」……
新しい理解が生まれるのは、応答の言葉があってこそで、対話は共有された新しい現実を作り出します。他の人たちの話をもっと理解しようとするとき、その話し合いで、自分自身が考えていることを、もっと自覚するようになります。
(121-123頁)
対話が新しい現実を作り出すというのは、多くの人に思い当たる話です。コロナ下で対話を遮断され、リモートでの教育を余儀なくされた子どもたちや学生、その関係者には、ひときわそう感じられるのではないかと思います。本書のバフチンの引用部分にもあったのですが、対話には身体性があります。話し手は聞き手を意識します。それは聞き手も同じです。相手の表情、イントネーション、姿勢、身振り手振り、笑いや涙……だけでなく、ざわつきや室内の温度、湿度、そうしたものも、話し手や聞き手の感情に微妙な影響を与えています。そのときの言葉や雰囲気、ひょっとしたらにおいまで、その場に居合わせ、話し手となり聞き手となった人たちは、その後何年にもわたって記憶にとどめるかもしれません。そしてまた、対談によって新たに生み出され、展開されたであろうことも…。そうした機会が失われたことが、子どもたちや学生らの人生にどう響くのかははかりしれません。
たまたま見つけた本なのですが、奥付を見ていて、父親が手術・入院で大変だった頃に出た本であることを知りました。なるほど、職場と家と病院の間を移動するだけでは、出版情報もつかめなかったかもしれません。対談とは言わないまでも、誰かとゆっくり話す機会があれば、何かの関連で筆者の暉峻さんや著書のことが話題に上ることがあったかもしれませんし、そうだとすれば、もっと早くにこの本を読んでいたかもしれない。単なる情報交換のレベルだけでも、生身の人と話すのは大事です。
(岩波新書 2017年1月刊 253頁)
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