ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「最後はお金」を踏み越えること

 今日も短めに。
 NHKが去年12月に放送したBS1スペシャル「河瀬直美が見つめた東京五輪」という番組に出てきた男性が、五輪反対デモに「お金をもらって動員されていると打ち明けた」との字幕を入れた件、実は男性が五輪デモに参加した事実はなかったことがわかった。

NHKの河瀬直美さんの五輪番組、字幕に不確かな内容 21年放送 | 毎日新聞
NHK、事実確認せず不適切字幕「金もらって」「五輪反対デモ参加」:朝日新聞デジタル

 NHKは取材に「思い違い(思い込み?)」があったことにしたいようだが、放送前にしかるべき複数のスタッフが内容をチェックしている以上、これは「思い違い(思い込み)」の所産ではない。「カルト」でもあるまいし、集団全体が「思い違い(思い込み)」をしているなどということがありうるのか。組織として問題に気づかなければ「無能」だし、知っていてやっているなら「捏造」、そのまま放送すれば「デマ」「世論操作」である。いずれにしてもNHKには公共放送を名乗る資格があるのかという重大問題だろう。

 辟易とするが、ウソの蔓延とウソつきの跋扈は、相乗効果というか、負のスパイラルになってこの国の社会を蝕み続けている。ことが発覚するたびに、とうとうここまでやるようになったのかと思ってきたが、まだまだ「終わり」は見えそうにない。この件もスルーされていたら、公共放送が偽ドキュメントを流すことが「認知」されたことになり、「ウソ機構」の「歯車」はさらにもう一回転していた。とてもお詫びのテロップを流して終わりにできる話ではない。

 この虚偽に加え、お金をもらってデモに「動員」と伝える作為にも問題を感じる。これは去年の衆院選の際、茨城や広島で「動員」に日当が払われていた例(買収?)を連想させる。デモと選挙演説のサクラを同類には扱えないが、一般的に、組織の動員に応じれば手当(謝礼ではないので交通費くらい?)を支給するのは当たり前だと思われている。
 しかし、昨年の五輪反対デモの場合、実情はわからないが、組織動員とはかなり縁遠い話だと思う。集まるのが好きという人はともかく、多くの人は、おかしいことには声を上げようと思い、組織や所属に関係なく自分の意志で集まっているわけで、これを金銭「対価」と結びつけるのは、デモを貶めるだけでなく、参加者に対するはなはだしい侮蔑だと思う。映画製作の関係者と視聴者へのお詫びなるもの(だけ)を字幕で流したNHKに、自らの認識の誤りを認め、反省するつもりがあるようには見えない。

 デモに限らず、社会運動を卑小化することはこの国の(為政者側の)習いだった。自己責任というイデオロギーの蔓延と社会連帯の分断は歩を一にしている。1990年代以降急激に下火となっていったストライキは、国民の経済活動や日常生活に支障を与える迷惑行為で、自分たちの賃金に(だけ)固執する労働組合の身勝手な自己主張とみなされるようになった。そもそもストライキの目的は必ずしも賃上げだけではなかったはずだが、徐々に「春闘」へと集約・制度化され、賃金問題にばかり焦点が当てられようになり、政治社会闘争(運動)の面はそぎ落とされた。

 先の衆院選で落選した石原伸晃氏は、環境大臣をしていた2014年6月、福島の原発事故の除染で出た汚染土の貯蔵施設の用地取得の調整が難航した際、「最後は金目でしょ」と発言したが、これは石原氏個人に特異な発想ではなく、政府側に共通する認識だと思う。要するに、自分たちが「最後は金」だと思っているから、「相手(国民)」もそんなもんだと思っている。しかし、これは大きな間違いだ。

 例はいくつもあるだろうが、赤木さんの裁判を「認諾」した先の国の姿勢にも「最後は金」の思想が現れている。だが、赤木さんはじめ原告側が求めているのは真実を明らかにせよ、ということだ。民事裁判だから最後は賠償云々の話になるのは当然だが、真実を覆い隠した金による「解決」は、解決にはならない。それをごり押しされた我々の側も、個々にはともかく、全体として怒りを持続できないために(見透かすように)、この種の手法が前例となって何度もくり返されてきたと思う。それを踏み越えられるかどうか。これ以上は責任のあることは書けないが、踏み越えないと、先送りばかりでどうにもならないことがいくつもあると思う。



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