ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

金平茂紀『筑紫哲也『NEWS23』とその時代』

 金平さんの『筑紫哲也NEWS23』とその時代』(講談社)を読了した。楽しいことばかり書いてはなかったが、一気に読んだ。
 先日来、金平さんのインタヴューのことや筑紫さんの最後の「多事争論」(先日の引用と金平さんの本書での引用がちがうのだが…)のことを書いたので、短く断片的に。

 1989年10月から約18年続いたTBSの夜の報道番組「筑紫哲也NEWS23」――小生はどちらかというと時間的に先行するテレ朝の「ニュースステーション」の方を見ていたので、NEWS23までハシゴする余裕があまりなかった(はず?)。だから、節目節目で当時自分が何を感じていたか、共有できるものはそれほど多くないのではと思っていた。ところが、読み始めると、けっこう書かれている場面の記憶がよみがえってきて、実際には意外に「ハシゴ」していたことに気づかされた。

 「筑紫哲也…」と「冠番組」であることの意味を読むまではあまり気にしていなかった。確かに、テレ朝の「ニュースステーション」には「久米宏」という「冠名」はなかった(その前に日テレで放送されていた「テレビスクランブル」には「久米宏の…」が付いていたが)。これは「客寄せ」ではなく、報道番組の編集権(統括責任)を誰が握るかということを意味していた(CBSニュースのキャスターだった故ウォルター・クロンカイトをモデルにしているらしい)。何を報道するか、どこまで報道すべきか――番組のメインキャスターが報道内容を左右する最終責任者であることをテレビ局自身(経営側)が認めているというのは、この国では極めて珍しい(今の日本のテレビ報道の惨状には、わずか10数年で全く別の国のメディアになってしまったような感じさえする)。しかし、そうであったが故の「事件」が、18年間にたびたび起こっていたことにも改めて気づかされた。

 とりわけTBSには、1996年3月の「オウム・ビデオ事件*」という前代未聞の大失態がある。四半世紀前の話とはいえ、オウム真理教関連の事件は、多くの人々にとってなおも「傷痕」を取り除けていない。
* 1989年10月26日にTBSのワイドショー番組のスタッフが、弁護士の坂本堤氏がオウム真理教を批判する内容のインタヴューのビデオを、放送前にオウム真理教幹部に見せたことがきっかけとなり、9日後の11月4日にその坂本弁護士と一家が殺害された。当初、TBSはビデオを見せたことを否定していたが、1996年3月に翻した。

 社内調査の結果、当初は「ビデオを見せていない」と説明していたTBSは、オウムの捜査が進み、真実が明らかになってくると、ついに前言を覆し「見せていた」ことを認めた。TBSには最大の危機だったかも知れない。このとき、筑紫さんは本気で番組降板を決意したという。番組内の「多事争論」と呼ばれるスピーチ・コラムで筑紫さんは次のように述べた。

 報道機関というのは、形のあるものを作ったり売ったりする機関ではありません。そういう機関が存立できる最大のいわばベースとは何かと言えば信頼性です。特に視聴者との関係においての信頼感です。その意味で、TBSは今夜、今日、私は、死んだに等しいと思います。これまでも申し上げてきましたけれども、過ちを犯したこともさることながら、その過ちに対して、どこまで真正面から対応できるか、つまりその後の処理の仕方がほとんど死活に関わると申し上げてきましたが、その点でもTBSは過ちを犯したと思います。そして、今日の結果の発表も、まだ事は緒に就いたばかりで、これからやるべきことはいっぱい残っているだろうと思います。その中で自分たちがどういうことを考え、何をやっているのかをもう少し公開することもひとつの務めであろうと思います。実は、こういうことを申し上げるべきではないのかもしれませんが、今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました。というのは視聴者との関係で言えば、私はTBSの社員でもありませんし、直接、今回の事件のことを知っているわけでもありませんけれども、信頼性と、視聴者との関係で言えば、いわばTBSのひとつの顔の役割を果たしてきただろうと思います。その責任もあるのではないかと考えまして、そのあと番組が始まるまで、スタッフたち、局内の人たちとずいぶん長い議論を致しました。ある意味では、私はみっともないことだと思いますけれど、しかしこの局で仕事をしていて、ここまで落ちて、いったん死んだに等しい局ですけれども、これから信頼回復のために、あるいは甦るために努力しようとしている人たちもいます。その人たちと一緒に、とにかくしばらくのあいだは、そのための努力をしたいと思います。これまでも局内で、あるいは番組でもいろんな自分の意見を申し述べてきましたが、これからも一層その努力をして、テレビのあり方も含めて、大いにこれを機会にしてきちんとすることが、せめてもの坂本ご一家に対する償いではないかと思っております。
                      ――1996年3月25日の「多事争論

(267-268頁)

 このとき局内は混乱の極みにあり、それは著者の金平さんも同じだったろう。さすがに一部を除いて立ち入った細かい話には触れていないが、現場は、ちょっとした行き違いからそれまでスクラムを組んでやってきた番組スタッフの間に亀裂が入り、各々が言いたいことを飲み込んで自分の持ち場の責任を果たすという、ある意味、それまでの番組づくりとは逆向きのベクトルが働く異様な姿になったのではないか。これは心底厳しかったのではと想像する。
 しかし、「TBSは…死んだに等しい」が、「これから信頼回復のため、…甦るために努力しようとしている人たちと一緒に努力する」と、筑紫さんが「ある意味…みっともない」再起のための宣言をし、その言葉を多くのスタッフが心に刻んで奮起したことは、その後の番組づくりで実証されていると思う。

 著者は、冒頭で、これは筑紫哲也の評伝ではない、書き記したいのは『筑紫哲也NEWS23』と「その時代」についての「時間の記憶」だと書いている。確かに、内容は筑紫さんの「評伝」とは言いがたい。しかし、筑紫さんにおくる壮大なレクイエム(鎮魂歌)であることは疑いない。それは筑紫さんと伴走(伴奏)してきて今は故人となった多くのスタッフ、ゲストに対するレクイエムでもあり、それが指揮者の姿をいっそう際立たせる。

 筑紫さん本人はもとより、立花隆さんをはじめ、多士済々の関係者のエピソードがちりばめられていて、そういうところが実におもしろかった。
 よくぞ書いてくれました――おそらく日本全国にいた(いる)筑紫哲也さんの「伴奏者」たちとその関係者、遺族、そして当時番組を見ていた視聴者たちは、すべからく著者・金平さんのことを労うと思う(そうでない人は、まあそれなりに…)。

(2021年11月刊 367頁)




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