ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

2008年3月28日「多事争論」より

 金平茂紀さんの『筑紫哲也NEWS23とその時代』を読んでいる。食卓上においたまま、食後に少しずつ読むことにして、昨日6章まできた。
 「おかげ」でテレビをいっそう、というか、ほとんど見なくなった。ジャーナリストの筑紫さんが「越境」してその可能性に挑んできた「媒体」――それが、今や見る影もない哀れな姿になりかわった。「…なりかわりつつある」と書こうと思ったが、本を読んでいると、「進行形」にして夢をつなぐ気にはなれない。もはや “決定的” 段階は過ぎたと思う。
 他の人はどうか分からないが、少なくとも小生には、今のテレビは見ない方が自らの良心を保てる気がしている。監視カメラに映ったささいな「迷惑」行為をさも大事件のように毎日毎日見せられるたびに、他者への憎悪や不安を煽られる。うまい店や食い物、ネットで拾われたもふもふ動画を繰り返し繰り返し見せられるうちに、社会より自分の趣味の方が大切だと洗脳される。しかも、どのテレビ局も横並びで、同じ時間に同じことをやっている(映像も共有しているのでは…)。局も埋め草仕事をルーティンにするのだったら、もうその時間帯は放送を休止した方がいいのでは…と思う。結果、残るのは、連帯よりも分断、信頼よりも敵意、期待よりも失望……。いやそれでも、「中」で、あるいは「最前線」で、筑紫さんと同様に良識をもって制作や取材に携わっている人がいるのは知っているつもりだし、それゆえに葛藤されている姿も思い浮かぶ。その想像力だけは失わないようにしている。

 筑紫さんがNEWS23に最後に出演した2008年3月28日の「最後の多事争論」の動画を見た。病院の屋上で撮影したものだろうか。この7ヶ月余後に逝去されたわけだが、どうだろうか、これが最後になるかも知れないという予感が筑紫さん自身にも少しはあったようにも感じる。
 すでに、どこかで誰かがやっているとも思うが、この「最後」となった6分40秒余を文字起こしして記録しておきたい。筑紫さん、どうか許されよ。

WEB多事争論 - 動画

 あのー、テレビで私みたいに何事かコメントをするという、これは常識的にですね、30秒以内というのが普通です。ところで私が長年やってきました「多事争論」というのは、そういう意味ではテレビのルール違反でして、だいたい90秒、つまり普通の人がやっていいコメントの限界の3倍しゃべっています。ところが、しゃべっている当人は、そんなに長くしゃべっているのに、いつも欲求不満なんですね。つまり、自分の言いたいことが全部言えたということは、実は、長年やってきて、はっきり言うと一回もなかったと言っていいと思います。ですから、テレビの影響ですとか、テレビの説得力とか、よく言うんですが、実はやりようなんでありまして、私は、説得力のあるテレビをやってきたという覚えは、18年半番組を続けていてもありませんでした。
 こういう前置きをしていること自体が、普通のテレビじゃないことを、実はまあ、楽しんでいるというと変ですけど、今回は思い切ってしゃべってやれと思ってしゃべっているわけですね。つまり、ここまでしゃべっていてずいぶん時間を遣ってるんですが、本題は何事もしゃべってないんです。で、しいてというか、これだけは今言いたいなと思っていることをこれから申し上げるんですが、それは、政治の世界というか、この国全体がですね、ずいぶんガタが来てるんじゃないかと、先が暗いんじゃないかいう思い…。自分たちの国が凋落するというか、落ちていってるんじゃないかという思いが、世の中に広がっております。その広がっている中でですね、いろんなことがありすぎるために、よくよく政治一つとっても、なかなか中身がわからない、何が選択肢なのかわからないという人がいます。でも、私はそうじゃないと思います。
 病気をしまして、やや毎日テレビに出るのからは距離をおきました。遠くから眺めてると、ある意味問題は単純なんですね。政治について申し上げれば、政治というのはよく言われることですが、古典的には、世代の間でパイを奪い合う、つまり、若い世代のために、これからの世代のためにどれくらいお金を遣うか、あるいは、世の中のために尽くした、例えば高齢者のためにどれくらいのお金を遣うか、それの配分をめぐる争いだとよく言われております。それが政治の基本だということなんですね。
 じゃあ、どっちに配分を多くしたらいいのかというのが政治の選択肢であるはずなんですね。ところが、私たちの国の今のおかしさは何なのかというと、実はどっちにも(お金が)行っていないんです。
 教育ということを考えてみましょう。世界の先進国と呼ばれる国では、平均して、国民のGDPの5%くらいを教育に遣ってるんですね。日本は3.5%しか遣っていない。他に資源も何もなくて、教育しか取り柄がない国でですね、その投資を十分にやってないんです。
 じゃあ、その代わりに高齢者に対してたっぷりお金を遣ってるかというと、今騒いでいるのは例の高齢者の保険を別のものにしようとしているということで、老人を切り捨てるのかということが言われているわけですね。これひとつ見てもそうなんですが、先進国の中で、日本は医療費というものをきとんと遣っていない国なんです。医療費が高くなって毎年削る削ると言ってますけれども、実は今までの医療費そのものが、先進国と呼ばれる国々、OECDに加盟している国の中ではお金を遣っていない国なんですね。そういう国が、高齢者に対してたくさんのパイを与えてるとはとうてい言えない。
 つまり、未来にも投資していない、過去にも投資していない。じゃあお金がどこに行っているのかといえば、これはシンボリックに分かる話は、たとえば道路をつくるために59兆円というお金を向こう10年ずうっと遣い続けると言ってるんですね。つまり、お金が変なところに行ってて、普通の政治であれば、こっちにやるか、こっちにやるかという配分をしなきゃいけない、それが政治なのに、そうじゃないところに行っているわけです。
 で、私は病気、今、癌ですから、自分の体と比べて、どうもそのことを考えてしまう。人間の体は癌に冒されますと、本来遣うべき栄養とか、エネルギーとかいうものが、癌と闘うためにそっちにとられてしまうんですね。本来人間が生きていくために遣うべきところに向かなくなっちゃう。ですから、この国というのは、一言で言えば、癌にかかっている、そういう状況だというのがこの国の状況だろうと思います。
 そうやって見ますと、難しくとも何ともない。起きていることは非常にはっきりしています。それに対して私たちがどうするのか、何をやるのか。私の場合で言いますと、この病と闘っているわけですが、敵はなかなかしぶといです。ですから、この国の問題だって、問題ははっきりしている、ある意味では単純である。だから、やれることは簡単かというと、そうではありません。しかし、問題はここにあるんだということははっきりしないと何事も始まらない。その上で、それに向かって闘うのか、それにもう負けるのか、そこが私たちに迫られている選択肢だろうと思います。
 このくらいしゃべると、まあ、やや欲求不満がなくなると(笑顔)いう、そのくらい単純な話をするのにも、時間はいるんですね。それに比べると、私はテレビは短すぎたなと、いつも思います。短くしか説明できないというテレビの恐ろしさと欠点があるということを、今離れてつくづく思います。
 いくらなんでも長いんで、こんなところで。

 

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