オカケンこと政治学者の岡田憲治さん。以前「政治学者、PTA会長になる!」という新聞の連載記事が興味深かったことを思い出す。
政治学者、PTA会長になる!:/1 強制に義憤「魔界」参戦 「委員決め」は罰ゲーム、子供の運動会も断念 | 毎日新聞
その岡田さんが11月18日付『論座』の記事で、野党(支持者)は「救うべき人びと」を見誤っている、「維新に投票したような人たち」(の心情)にこそ目を向けるべきと書いている。
野党は、むしろ「維新に投票したような人たち」をこそ迎え入れる必要がある - 岡田憲治|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
野党はさほど負けていない
「議席の獲得数」という意味では、4年前に比べれば、野党側はかなりの数の小選挙区で共産党が候補者を取り下げ、「必敗の特攻」を挑む虚しい選挙区は減った。共産党を顕彰したい市民連合は「共闘のおかげ」と評価し、実際にそういう選挙区もたくさんあった。立憲民主党は、小選挙区での当選者を増やした。だからその意味では惨敗ではない。野党共闘で政権交代になると有権者が思わなかっただけだ。自民党の選挙のプロが危機を受け止め、表紙を変えた瞬間、つまり野党に「一寸先は闇の政界では当然用意するべきプランB」が全く用意されていなかった時点で、「政権交代選挙」に敗けていたのだ。
つまり選挙の結果が示しているのは、野党の戦いは前回よりもちょっとだけお利口になったから大敗ではないが、与党もさほど後退せず、維新が復調し、国民民主が少々勝った程度で、およそ三つのグループとなったという図式だ。
比例ベース得票率を目安にすれば、自民党がだいたい3割強、中道という意味で与党公明・「ゆ」党の維新・国民でおよそ3割、野党立憲共産れいわ社民で約3割ちょっとである。個別の政策ごとに見れば(消費税率など)、この分類は大雑把かもしれないが、問題は「各々の政党側の立ち位置」ではなく、むしろそれが有権者に「どう受け取られているか」である。これは「自民党に嫌気がさした浮遊する有権者が、どこを今回の着地点として選んだのか」という問題である。
結論から言えば、「さすがにもう無理だ、安倍・菅」と思った人たちは、「それじゃぁ立憲中心で」とはならなかった。立憲民主党の獲得議席数は、選挙前より13減ったが、その数はドイツ式の小選挙区比例代表併用制で計算しても、ほぼ同じ90台前半だ。だから大阪で完勝し全国的に得票した維新が2012年以来の議席41まで戻したこと、自虐的に「支持率ゼロの私たち」と言っていた国民民主党がしっかりと微増したことは、左派の野党が「何において敗けたのか」を考えるためのヒントとなる。……
中途半端とは言え、小選挙区を中心とする現行選挙制度では、「前回投票しなかったけど行ってみた」、そして「今回は別の党に入れてみた」という投票者が10%程度移動するだけで、議席が100も200も変動してしまう。維新・国民という「ゆ」党への投票者は、「自民vs立憲」という図式にピンと来なかった人たちだと推論できる。両党の比例の得票数を合わせると約1000万票である。これは有権者のちょうど10%である。つまり、この制度では「生まれた時から自民党しか知らない」とか「槍が降っても立憲に投票」という人は、勝負を決する人たちではないのだ。浮遊する10%の顧客をどうやって来店させるかが商店街の風景を決めるのである。
憲法改正の議論すら許さないという「愚民観」
「維新の会が4倍増の躍進!」と報じられると、SNSでは維新嫌いの人たちの間で「維新を勝たせる大阪はアホ」といった剥き出しの愚民観が飛び交っていた。橋下徹元大阪府知事以来の伝統芸「敵を定めて論破する“溜飲下げさせ論法”」、「痛みを伴う(人の給料を減らす)改革」というネオリベ的主張、根拠不明の大阪都構想など、維新嫌いの人たちはその理由を挙げるが、2009年の民主党政権誕生選挙の時、大阪の小選挙区はあらかた民主党の完勝だったことを思い返せば、これは「好き嫌い」の話だ。
だがこの愚民観は、「野党は一体何で敗れたのか?」という問いにヒントを与える。どのような政治キャンプにいても、一定数以上必ず「民衆は愚かである」という貴族主義者はいる。しかし、問題は「愚かな民衆」という意識が、「10%で世界の風景が変わってしまう」というゲームのルールの下で何をもたらすかだ。はっきり言えば、野党とその支持者は「市民の目線で」と言うほど、実のところあまり市民を信頼していないのだ。
第二次安倍政権以来、自民党は憲法改正に前のめりだ。そして、メディアも旧態依然の二分法の「護憲vs改憲」という空虚な言葉を使い続けて、憲法論議の遅滞を後支えしている。無論、「軍隊を持たない」という9条2項に、「でも軍隊はある」と書き足そうとする自民党(安倍)改憲案は法理を破壊するもので、これは国際法との平仄においても論外の案である。
しかし、自称リベラルや野党は、「憲法論議」と口にするだけで、「改憲論議の土俵に乗るのは自民党の援護射撃だ」と完全忌避だ。なぜならば「戦争はごめんだ」と考える人間は皆、自分たちに賛同するはずだと高をくくり、己にそう思い込ませるために、そうした固定客対応をしてきたからだ。その古い呼び声と店構えゆえに、商店街を歩く「ちゃんとした商品を見定めたい」という顧客を招き入れることができない。「うちの店の良さをわからん人は来てくれなくて結構」という店だ。
商店街には戦争好きな人などいない。そして、米軍の70%以上が沖縄にいることを、気の毒で申し訳ないと思っている。戦後平和教育は捨てたものではない。それでいて戦後76年を経た今、戦前回帰などという大仰な意識などなく、普通にこう考える人たちが大量にいる。
「沖縄に基地の負担を強いる、植民地ルールみたいな日米地位協定を、韓国のように修正したい」
「自衛隊がPKO時に巻き込まれる戦争犯罪を裁ける、命令した上官の責任を問える特別な軍刑法も裁判所もなく、命令に背けない隊員に自己責任を負わせるのは不憫だ」
「そうした無責任と無法状態の放置は、無理な解釈改憲で規範力を失った憲法9条を適切に修繕しないからだ」
つまり「軍隊の暴走を防ぐための国連憲章と呼応し合う憲法と関連下位法を整備しないと、国際社会での信頼を失ってしまう」と心配する人たちである。戦争をしたいわけではない。
2015年の安保法制が強行採決された時に、シルバー世代の護憲派の人たちが街頭でビラを配っていたが、そのビラの「戦争法案」という文字に、少なからずの人たちが「そういうことなのかなぁ?」と訝り、私の知る学生たちは「こんな煽り表現使って、オレたち馬鹿にされているんすね?」と不信を露わにしていた。60年安保とは危機感の種類が異なるのだ(私もあの安保法制には「政治的に」反対した。米軍が自衛隊に望む行動は、憲法規範が死んでいる以上、あんな法案なしでも可能だからだ。補修的改憲を通じた土台再構築が急務だと確信していた。護憲派とは根拠が異なる)。
野党と野党支持者たちが発した言葉は、「集団的自衛権は憲法違反! 米軍の軍事行動に巻き込まれる歯止めもなく戦争一直線だ!」というものだった。この時点で、十重に二十重に解きほぐすべき絡まった糸があるが(そもそも「歯止めがない」と言いつつ、「9条があったから日本は戦争に巻き込まれなかった」などという事実に反する文学表現だ)、市井を生きる人たちからすれば、それは「安保法案=若者は兵隊になる」という身体に響かない脅しのような言葉だ。そこには「この法律に無関心な人たちは意識が低いからこんな危険な事態に無頓着なのです」とでも言わんばかりの愚民観が見え隠れしていた。そういう目線に対して、言われた側は敏感である。心は閉じる。市民目線? 誰よ? 市民って?
……
「我々は不当な扱いを受けている」不満と不安の中間層
貧困と過度の格差は放置できない。希望喪失感が、とりわけ若者の間に蔓延すれば社会基盤は失われ、アトミックに浮遊する個人は生存できない。だから所得の再配分は不可欠だし、巨大な経済システムの中で立ち尽くす人々に「自己責任」を言い渡す社会思想に私は極めて批判的である。
しかし自分のこの信条とは別に、この社会には弱者、被抑圧的少数者を前にして、「明日は我が身」という怯えを持ちつつも、裏で「こちらもギリギリ必死に生きている。どうして一部の者が特別な配慮を受けるのか? 自分は不当に扱われている」という気持ちを燻らせている人たちもいる。自分には何か特定の集団アイデンティティがあるわけでもないが、これまで真面目に学び、働き、今も疲れた体に鞭を打って暮らしていると思っている少なからずの人たちだ。
彼らは有権者であり、市民であり、オフィス・ワーカーであり、税金を負担し普通に暮らしている「人々」だ。だから彼らは「特定の存在のあり方を強調する者たち」を看板にして聖化し、そこに依拠して「正義の刀を振りながらものを言う人たち」、「この問題に無関心だという理由だけで批判・否定してくる人たち」に心的距離を持つだろう。
「維新を圧勝させる人たちはどうかしている」と言う人たちは、大阪の風景をポピュリズムだと断罪する。しかし、維新支持者とは「少々お行儀は悪いけど、大阪のムダ削って頑張ってるやん!」と喝采を送る素朴な人々よりも、むしろ高学歴で比較的安定した企業に勤める40代の暮らしぶりのいいアッパー・ミドルを含んでいることが、関西の実証的政治学者によって報告されている
(善教将大『維新支持の分析―ポピュリズムか、有権者の合理性か』、有斐閣、
坂本治也「大阪には野党が学ぶべきモデルがある」気鋭の政治学者が語る“大阪維新の会”強さの秘密 (1/2))。
関西の親維新メディアの洗脳だと言う人も多いが、テレビ・メディアが投票行動に決定的な影響を与えないことは、政治学研究では常識だ。
もし政治学者の言う通りなら、流布するイメージとは裏腹に、維新支持者は、真面目に働いて、痛税感を抱え、自分たちの負担した税が「名付けられた少数者」のために使われていることに、鬱屈した不満と不安を募らせている薄くなったミドル層の人たちということになろう。彼らは、極端な格差社会を「優勝劣敗やろ?」と思っているわけでもないし、大阪都構想のような「根拠が不十分な案件」については慎重な態度をとった(二度の住民投票で否決)。同時に、彼らはわずか12年前の大阪の「民主党圧勝」の投票者かもしれない。自民党に代わる場所を探していたからだ。
「我々を代弁してくれる政党がない」という気持ち
野党が向かい合うべき人たちを発見するエリアについては、紙幅の関係で全てに触れることはできないが、もし野党共闘を中心に政権交代を望んだ者たちが「敗けた」のだとすれば、それはこういう意味での敗北だろう。
「自分はさほど極端なことを主張しているわけでも、自民党ならば何でも良いと思っているわけでもないが、気がついたらこういうレンジにいる自分を代弁してくれる政党があまり見つけられなかった。だから維新に投票した」と考える、政治の風景を激変させる可能性のある「10%の人たち」の心をつかめなかった。
実態としての社会的中間層の再生、戦略としての中間層の支持の獲得、それらがともに正しい見立てだとすれば、そこにリーチすることができなかったのである。……
日本の有権者は半分しか投票に行かない。そういう中で、野党は固定客だけの支持では政権を作ることはできない。得票率3割台の自民党も、水と油のような政策の違いの公明党から各選挙区で数万票の補助票をもらって、ギリギリで政権党の座にある。これが現行制度における「なんとか人々の気持ちを着地させる」やり方だ。正邪ではない。過半数という事実をめぐる政治だ。
維新の圧勝をポピュリズムと蔑み、「戦争法廃止! 護憲!」と叫び、それを見透かされることで多くの人たちに「またあんなこと言ってる」と引かれ、自民党にお灸をすえなきゃいけないと不満を募らせる人たちを店に呼び込めない野党は、むしろ「維新に投票したような人たち」こそ迎え入れる必要があるのではないのか? そういう普通の人たちの力でもう10%票を増やして、天敵のような安倍や麻生たちに退場を迫るための潜在的な「仲間」としなければならないのではないのか?
維新は「改憲派」だからNGなのか? 国民民主は「原発当面維持」だから裏切り者なのか? 公約とは綱領とは全く別のもので、公約は「次の選挙までの間3年、互いに協力できるリスト」だから、「政策が異なる」ことは決定的障壁にならないのではないのか? すでに用意しているなら市民を信頼して9条を輝かせる「野党版改憲案」を店頭に並べてみるべきではないのか? ある政党に投票したということと、その政党のメニューを100%支持することは、全く別であり、「維新支持者は維新のようなデタラメを平気でやる連中なのだ」とするのは心の習慣だが、大人の常識に立ち帰れば、そんなことがあるはずがない。
リベラルとは「正義」を頑迷に主張する態度ではない
このやや挑発的な問いかけは、「もし3割の壁を超えて政権を手にしたいならば」の話だ。あくまでも固定客に鮮度の落ちる商品を買ってもらい、「名付けられた少数者に寄り添う」(これ自体は異論なく本当に大切なことだ。現場では私も実践している)と「恒久平和を文学的表現で叫ぶ」幟ばかりを店頭に立てて、その理念がもし理解されないなら永遠の野党で良いのだというなら、立憲も民主も両方看板から消して、あの懐かしい社会党を再結成すれば良い。ただし、それでは弱者は救えない。
でもこれらのことを理解して「自分を発見してほしい」と思っている人たちに言葉を届け、彼らを信頼し、これまでの固定客に加えて、冴えない自分の店に新たな人々を招き入れる工夫をするなら、その時、リベラルは政権を取るために絶対に必要な投票者の40%を仲間にできるだろう。そもそもリベラルとは、正義を背負った主張に頑迷に固執する態度ではないからだ。
野党は、共産党と組んだから敗けたのではない。共産党と組むことが次にまた勝つ唯一の方法でもない。「ぼんやりと自民以外の政党を探していた人たち」と、どう付き合うかで、次の政治の勝敗は決まるだろう。さしあたり「メディアの煽りだけで維新があれほど勝つはずはない」という、当たり前の認識から分析し振り返ってみてはいかがか? 私の住む東京郊外では「知名度ゼロの維新候補が血みどろで戦った立憲民主党当選者の6割」を瞬時に集票した。「住民がアホ」では説明がつかない。……
立憲民主党の代表選が19日に告示され、4人が立候補し、記者会見に臨んだ。テレビで様子を眺めていたが、案の定「共産党との連繋」の質問が出てきて、4候補者とも「ウィングを広く」だのと「無難」に回答したので、「何だ、誰も違わないじゃないか!」と拍子抜け。あとでbooさんのブログを見たら、ジェンダー平等の質問に対する応答を起こしてくれていて、こちらには少しは違いが見えたが、男3人の話が意外なほど冴えない。西村候補にNZのジャシンダ・アーダーンの姿が重なるかどうかはまだ不明。
buu (@buu34) | Twitter
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