ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

世論と輿論 與那覇さんの話

 父親が亡くなってから、暇な時間に荷物の片付けや書類の処分を励行してきたが、年内にはとても終わりそうにない。古い箪笥の抽斗をあけると、昔の領収書や会計簿の類いに加え、写真などが出てくる。これは父親というよりも母親が大事に収集していたようにも思うが、小生らの幼少の頃や近所の人などがたくさん写っているので、懐かしくなってついつい手を休めて見入ってしまう。これではますます終わらない。
 理由はよくわからないが、昭和の時代の新聞や広告がそのままごっそりと入っていることもある。NHKの番組欄などを眺めると、昔懐かしい「NHK特集」(NHKスペシャルの前身 1989年3月まで)の文字もみかけて、ああ、シルクロードかあ、などと連想する。そういえば教育テレビに「海外ドキュメンタリー」というのもあったはずだ。1980年代くらいまでは、あのNHKも、かように良質なドキュメンタリーを放送していたのだ。インターネットや衛星放送の今のご時世に、地上波で“純”報道番組や「硬派」ドキュメントを放送しても、もはや見る人は少数か、いや、放送しないから見なくなっているのか――相乗効果によって今があるのだろうが、こうしたテレビ番組と視聴者のあり方(もうすでにテレビは見ていないのかも知れない)が時代の世論形成に影響を及ぼしているのは確かだ。

 那覇潤さんというユニークな(と思う)日本近代史の研究者が「歴史学者を廃業する」と宣言したという記事があった。どういうことか。

歴史学者やめました 違和感を抱く僕を救った恩師の言葉:朝日新聞デジタル

 「歴史学者」という肩書きで担わされるものと自分のあり方に埋められないギャップを感じていたと理解した。物事に白黒をつけることは時に必要なこととはいえ、一刀両断的で「プロクルステスの寝台」のような歴史(解釈)は最も危うい。しかし、世間は、複雑で難解なものよりも単純明快なものの方を好むし、それでわかった気になりたがる。

 與那覇さんの記事で興味深かったのは、実は、これと重なる部分を含む4ヶ月前のインタヴューの方だ。7月18日付朝日新聞の記事で、彼はこう話していた。

「タピオカ化」する日本の世論 歴史学者が見る新しい姿:朝日新聞デジタル

 ――そもそも「世論」とは何ですか。
 京都大学佐藤卓己教授が指摘されていますが、戦前の日本では、パブリック・オピニオン(公論)を指す『輿(よ)論』と、ポピュラー・センチメント(大衆的な感情)を指す『世(せ)論』の二つを呼び分けていました。ところが、いまの大手メディアは常用漢字の制限もあり『世論』としか書けない。結果として『輿論』の世論化が起きています」

 ――かつては「よろん」と「せろん」の二つの概念が使い分けられていた、と。
 「大学教員時代に、佐藤教授の著書をゼミの教材にしました。そのとき学生と一緒に、60年安保改定時の岸信介首相の動画を見たのですが、戦前生まれのエリートである岸は、自分を批判しているのは『せろん』に過ぎない、と発声しています。異見と対峙(たいじ)して冷静に練り上げた議論ではなく、大衆が一時の激情を発散しているだけだ、という趣旨だったのでしょう」

 ――かねて世論は、情緒に流れてポピュリズムになる、国民を一色に染め上げる、といった危険性があると指摘されています。
 「その通りですが、最近のコロナ禍では、別の特徴も見えてきました。国民全員が画一化されてしまうから怖い、というよりも、ある瞬間は一色に染まるけれど、何かの拍子で飽きたり、消費しきったりすると、次の瞬間には蜃気楼(しんきろう)のように消え去り、ゼロになる。世論の短命さが可視化されています」

 ――世論の短命化ですか?
 「たとえばコロナ前は、五輪の開催に対して『批判する人はひねくれもの、空気が読めていない』とする世論がありましたが、いまは微塵(みじん)もないですよね。より細かく見ると、日本でワクチン接種が進む前は『海外の変異株はヤバいぞ』とみんな語りあっていたのに、接種が順調だとなってくると、その話題はまったく出なくなる」
 「もっと顕著なのは緊急事態宣言への世論の反応です。昨年4月の1回目では『自粛しないのは非国民!』と言わんばかりでしたが、今月の4回目では『従う人なんて、いまさらいるの?』と、正反対の雰囲気です」

 ――それは、時間が経つにつれて意見が変わった、ということではありませんか?
 「本来、意見とは言葉で練り上げるものです。だから、変わる場合も、それまで積み上げてきた思考の『歩留まり』が残ります。『この条件がいまはなくなったので、ここまでは譲るけど、それ以外は変えないよ』というように。かつての『輿論』とはそうしたものでした」
 「しかし『世論』は情緒であり、気分です。歩留まりが機能せず、百八十度逆のところまで一気に入れ替わり、痕跡すら残さない。わかりやすく命名するなら、いわば世論には『タピオカ性』があるわけです」

 ――タピオカ性、ですか?
 「平成の末にブームが起きて、一時は都市部の至る所にタピオカ店が開店し、行列していましたよね。ところがあっという間にほとんど消えて、食文化としても残っていません。象徴的だと思うのですが、私の家の近所の元タピオカ店はいま、PCR検査センターになっています(笑)。コロナ関連の世論のほとんども、そうしたセンターの将来と同じく、遠からず消えていき、何も残さないでしょう」
……
 ――なぜ世論は「歩留まり」なく、蒸発してしまうのでしょうか。
 「空気(のような世論)は、実は相手を説得しておらず、単に異論の持ち主を『黙らせている』だけだからです。『どうして子育て世帯だけを優先するんだ。特権階級なのか』と感じていた人たちは平成の時代にも多くいました。ふわっとした雰囲気で作られた『そんなことを言うやつはイタい』とするムードが、コロナ禍で吹き飛び、黙らされていた意見が息を吹き返したというわけです」

 ――最近はネット上での議論の可能性についても、悲観的な論調を耳にすることが多いです。批評や評論といった分野が衰退して、新世代の書き手が出てこないとか。
 「その流れはありますね。ネットが新しい書き手を育てると期待された平成期、想定されていたのは『趣味語り』でした。大手メディアではマイナーな話題にすぎない対象でも好きな人はいて、ホームページやブログでならば、その魅力を熱く語ることができた。しかし、いまのネット空間では、そうした趣味語り自体が低調になっている気がします」

 ――なぜでしょうか?
 SNS化と『推し』の副作用ですね。いまはアイドルやミュージシャンが公式のアカウントやチャンネルを持っていて、高画質の動画を直接配信してくれます。それらを通じて擬似的に『推し』に触れた気持ちになれるから、『語る』必要がなくなったんです」
 「昔、ファンたちが趣味語りをしたのは、好きなアーティスト本人には、気安く触れられなかったからです。直接は会えないし、新作もたまにしか出ない。そんな隙間の時間を『俺に言わせると、彼女の魅力は……』のように語ることで埋めていた。そうした批評に対し、同じ趣味を持つ人が『この評価はすごくいい』『いや、自分の考えは違う』と論評しあうことで、横のつながりもできていました」
 「ところが、インスタライブやオンラインサロンのように、あたかも毎日、本人に直接触れられるような近接感を生むメディアが主流になると、そうした『趣味語り』の言葉は駆逐されてしまうんです。本人以外が勝手にごちゃごちゃ語るのは、むしろ『うざい』という風に感じられてしまうんです」

 ――本人以外が代弁するのは傲慢(ごうまん)だとする風潮が生まれる。つまり、「推し」は神になるというわけですね。
 「その通りですが、『言葉を生み出さない神』である点がポイントです。キリスト教イスラームの神様には直接触れられないし、普通は目にも見えない。だからこそ『神とは何だ?』と必死に考えて、ぶ厚い経典や注釈書を作り、教理問答をしてきた」
 「これに対し、いまのネット社会で比喩的に呼ばれる『神』は、直接触れられるという幻想によって成り立っています。だから、むしろアニミズムに近くなる。ダイレクトにつながればよくて、神父や牧師に相当する仲介者は要らないし、媒介物としての言葉も不要になってしまう」

 ――新刊の『歴史なき時代に』(朝日新書)では、それだと「もう歴史は生まれない」ことになる、と主張されていますね。
 「『神』になれる人なんて一握りで、圧倒的多数は自分なりに代弁し、神の代理人として振るまうところから主体性を作っていくしかないのに、それを認めてもらえない。中間で『歩留まり』することの大切さが、ここでも失われているのでしょうね。歴史とは『永遠の中間派』であるはずだったのに、いまや無視されるばかりです」

 ――「永遠の中間派」ですか。
 「『絶対の正義』は現代ですら実現していない以上、過去を眺めれば、不完全なものしか目に映りません。しかし、そうした限界の中で生きてきた人々の歩みを、『ここは問題だったが、ここまでは評価できる』と位置づけてゆく営み、それが本来の歴史です」
 「それがいまは機能していません。一方の極に、ただ事実を発掘するだけで価値判断に踏み込まない素朴実証主義があり、もう一方の極には米国のブラック・ライブズ・マターにも見られる、『いまの基準で測れば、過去のやつらはみんな差別者』といった全否定だけが吹き荒れています」

 ――歴史のない社会では「中間派」が存在できず、原理主義に向かわざるを得ないということでしょうか。
 「昔、大学の授業で、ガンジーを始めとするアジアの独立運動を描くNHKの歴史ドキュメンタリーを学生たちに見せました。仰天したのは、『私は他の先生の講義で、植民地主義を批判するポストコロニアリズムの理論を学んだ。その私に言わせると、ガンジーはしょせん中途半端だ』というリポートを書いた学生がいたことです。恐ろしいことだと思いました」
 「現在の基準で過去を全否定する人は、同時代の問題を議論する際にも『歩留まり』を作れず、極端から極端へと変異する世論を渡り歩くことになります。歴史を学ぶとは、そうした不毛な連鎖を食い止めるための『ワクチン』でした。そのことに気づくときに初めて、コロナ禍での言論の混乱にも、出口が見えてくるのではないかと思います」

 「世論」と「輿論」のちがいにはなるほどなと思った。しかし、そもそもこの二つは別物ということもなく、実は曖昧にくっついた一体物なのではないかと思う。そこから「輿論」の部分を引き剥がしたのが今の地上派テレビでやっている諸々の番組を支える人びとの声・空気=「世論」なのではないか。そう考えると、「世論」は「輿論」を取り戻さないといけないように思えてくる。
「そんなこと言ったって、世間の多くの人はドキュメンタリーなんてどうせ見ないでしょ!」とテレビ局は言うかも知れない。
――いや、それなら、なぜ小川淳也さんの映画が受けるのかと。



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