ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

ポストコロナとコモンズ

 作家で珈琲店経営者でもある平川克美さんのインタヴュー記事を読んだ。ポストコロナの日本社会はどこへ向かうのか、あるいは向かうべきなのか。記事の後半に出てくる「共有化」という言葉が目を引く。11月5日付毎日新聞より。聞き役は葛西大博記者。

特集ワイド:この国はどこへ これだけは言いたい 成長戦略より生存戦略必要に 作家・平川克美さん 71歳 | 毎日新聞

 「コーヒーの仕入れ値が上がって、2カ月前にはこれまで1杯500円だったのを530円に値上げしたんです」。その530円のコーヒーを注文し、平川さんの言葉に耳を傾ける。世界経済の回復や産地の天候不順で、コーヒー豆の価格が高騰したという記事を少し前に読んだ覚えがある。コロナが落ち着いても、商売にとっては相変わらず大変な時代なのだろう。店内にはグランドピアノが置かれ、生演奏による中島みゆきさんの「時代」の旋律が聞こえてくる。心地よい雰囲気の店内だ。
 「ここの店はカフェだけでは赤字なんです。夜に対談や音楽、演劇のイベントをやって、ようやく収支が合う。コロナ禍でイベントは中止していましたが、その部分の休業協力金が出なかったら、経営は難しかった」。そう語る平川さんは2014年3月に品川区内で「隣町珈琲(カフェ)」を開業。20年末に、下町風情が残る商店街の一角である現在の場所に移転した。約50坪(約165平方メートル)と、個人経営としては広めで、3人の社員と4人のアルバイトで店を回す。緊急事態宣言が解除され、夜のイベントを最近、再開したばかりだという。
 コロナの影響は日本経済に暗い影を落とす。東京商工リサーチによると、20年に全国で休廃業・解散した企業は前年比14・6%増の4万9698件で、調査開始の00年以来、過去最多だった。「僕の知っている範囲でも、店を閉じたところはずいぶんありますよ。書店や銭湯、洋品店とか。小さなお店はギリギリで商売しているので、ちょっとでもバランスが崩れると、もうやっていけなくなるんです」
 喫茶店を思い浮かべてみても、最近は昔ながらの個人経営の店はあまり見かけない。目にするのはチェーン店のコーヒーショップばかりだ。「サラリーマンが退職後に自宅の庭先で喫茶店を開くのは、家賃が要らないから小遣い稼ぎくらいにはなります。でも、賃貸料や人件費を払って、個人が喫茶店経営をビジネスとして成り立たせるのは、どうやっても難しいですよ」

 「経済には成長と分配が必要」(自民党)。「『1億総中流社会』の復活をめざす」(立憲民主党)。10月31日に投開票された衆院選では、与野党とも経済再生を最重要課題に挙げ、中間層を意識した公約を掲げた。「岸田首相は自民党総裁選で、『令和版所得倍増計画』や『成長と分配』など、かつての宏池会(岸田派)的な考え方を示しました。国会議員や党員もそこに懸けて、岸田さんは当選できたわけですが、最近は分配とか、反・新自由主義的な政策をあまり言わなくなりましたね」
……
 衆院選では、コロナ禍で顕著になったとされる格差の是正も争点となった。平川さんは、01~06年の小泉純一郎政権以降、格差が進んだと見る。「仮に格差があったとしても、下から上へと抜け出すチャンスがあるならば、それほど気にはなりません。しかし、今はかつての身分制社会のような状況になりつつあります。つまり、格差の固定化が進み、それがコロナによって顕在化したのです」
 「構造改革」を掲げた小泉政権以降、新自由主義が日本に浸透。それは国家による経済への介入を減らし、市場原理に基づく競争重視の経済・社会政策だ。その結果、競争が激化し、経済格差を拡大させたとの批判は根強い。その解消のため、成長と分配の好循環による分厚い中間層の復活というのが、岸田首相の主張だったはずだ。
 だが、そもそも平川さんはこの考え方に疑問を呈する。「分厚い中間層というのは理念的には正しいのですが、それは右肩上がりの経済の中で成し遂げられるある種の理想なのです」。個人消費国内総生産GDP)の6割を占めると言われる日本。人口減少社会ではもはや経済成長は望めず、さらにいったん固定化してしまった所得階層を解消するのは難しいというのだ。平川さんは、こうも付け加える。「貧乏でも人は生きていけますが、孤立化した貧困には耐えられません」
 約1億2500万人の日本の人口は、政府の推計では50年ごろに1億人を割り、少子高齢化もさらに進む。「1980年代ごろまで成長軌道にあった経済が終わりを迎えましたが、政治はそれに適応してパラダイムシフト(考え方の変化)してこなかった。いまだに政治家は経済成長を主張していますが、人口が減り、モノの総需要が総供給を下回っている状況では、右肩上がりは当分の間ないと思った方がいい。今は考え方を根本から変えていくべき時なのです」

進む共有化の動き
 ならば低成長の時代、どういう社会を目指すべきなのか。「右肩上がりの経済成長を推し進めた一番の原動力は私有化の増大で、より多くのモノを収集できるかどうかです。車は持っているけれども、他の人よりももう少し性能のいい車が欲しいなどと考えることです。企業も消費者の私有化競争をあおることで需要を作り出しました」。確かに「いつかはクラウン」という、自動車メーカーのキャッチコピーを聞いたことがある。いずれは高級車に乗ることがステータスであると、購買欲をくすぐるフレーズだったのだろう。
 だが、給料が増えなければ、消費も伸びない。勤労者世帯の所得は、97年をピークに減少傾向だ。国税庁民間給与実態統計調査(20年)によると、会社員の平均年収は433万円で、そのうち300万円以下の割合は37・7%を占める。サラリーマンの4割近くが年収300万円以下で生活しているのだ。
 成長が滞り、私有化の増大が限界を迎えつつある日本は、どこに向かうべきか。「年収500万円だった人が、年収300万円になっても生きていくためにはどうすればいいのか。生活の質を落とすことなく、私有化とは別の方向に進む。私有の反対の概念は共有化なんです」
 平川さんは共有化の一例として、フリーマーケット(フリマ)アプリ最大手の「メルカリ」を挙げる。フリマアプリは、ネット上で個人同士が自由に品物を売買するスマートフォンやパソコン向けのサービスだ。
 メルカリによると、9月の月間利用者数は2000万人を突破するなど、広く浸透している。「利用者は、ネット上で皆が共有する巨大なクローゼットとしてメルカリを捉えています。そのクローゼットから、服や靴などを探してくるという感覚です」
 他にも共有化の動きが見られる。コロナ禍でテレワークの人も増えたことだろう。平川さんの「隣町珈琲」でも、パソコンを抱え、仕事をするサラリーマンを見かけるという。「ここは電源を無料で使えるので、何人かテレワークをしている人がいます。これもカフェを共有地として使うという発想の一つでしょう」。車を所有せずに共有する「カーシェアリング」も同様の例だ。「当然ながら共有化することで消費は減り、GDPは下がります」
 モノがあふれるという豊穣(ほうじょう)さとは別の意味での豊かさ。「例えば、山奥に住めば不便ですが、おいしい水や空気を味わうことができます。これも一種の豊かさです。これから必要なのは、成長戦略ではなく、生存戦略なのです。人が生き延びていくための共有地を作っていくことです」。縮小した経済に合わせた社会をどうやって再構築していくのか。今は、それが問われる時代なのだろう。

貧乏でも人は生きていけますが、孤立化した貧困には耐えられません」という平川さんの言葉には同感する。(経済的に)「貧乏」であることと「貧困」は異なる。「貧困」は、一見うらやましいくらい「豊か」な生活を送る人たちにも決して無縁ではないところの、近現代社会固有の問題である。となると、平川さんが言った「生存戦略」は「貧乏」からの脱却とか克服というレヴェルにとどまらないだろう。

 「成長戦略」ではない、この「生存戦略」については、イヴァン・イリイチが1977年に書いた(講演で話した)「現代の貧困」という問題意識が重なる。イリイチが半世紀近く前に念頭においていた「産業社会」から、今はもう遠く離れたところまで来てしまったが、我々が貧困化にさらされる現実は変わっていないように思う。

 現代的な意味での貧困
 市場に依存する度合いがある閾を超えると、現代的な意味での貧困があらわれます。この場合の貧困とは、主観的にいえば産業生産による豊かさにあまりに依存しすぎることによっていわば手足をもがれた人びとが、豊かであるにもかかわらず、満たされない気持を味わうようになるということです。ひとことでいえば、そうした貧困は、そうした貧困に苦しんでいる人びとから、自力で行動し、創造的に生きる自由と力を奪うということです。つまり、そうした貧困は、市場に組みこまれることによってしか生存できないような状態に人びとを閉じこめるのです。こうした新たに生まれてきた無力感というものは、あまりにも根が深く、まさにそのゆえに、それは容易に表現されえないのです。……
……この貧困のあらたなミュータント[変異体]は拡がりつづけています。個人の資質や、地域の人びととの生活や、環境資源を自分たちの手で用いたり、営んだりできないという、現代に特徴的な無能力は、生活のあらゆる面をむしばみ、文化的に形成されてきた使用=価値[ものの使用そのものに備わっている価値]に代わって専門家のつくりだす商品が、生活のあらゆる面で幅をきかせるようになっています。こうして、人びとが、市場の外で個人的社会的満足を味わう機会は失われてしまいます。たとえば、わたしは、ロサンゼルスに住み、ビルの35階で仕事をしていますが、そのことによって[エレベーターを利用することで]、わたしの足の使用=価値が失われるなら、[そのようなあらたな意味で]わたしは貧しいのです。……

現代の貧困の諸側面
……たしかに、…消費格差の拡大は、新しい貧困の重要な側面ですが、現在わたしが中心的な関心を向けているのは、貧困の現代化にともなう別の側面なのです。つまり、われわれが自力で生きる基礎が掘りくずされ、生活に満足が感じられなくなり、経験が平板化し、ほとんどすべての人…が欲求不満におちいっている、そうした現代の貧困のもう一つの側面が進行している過程なのです。…乗り物のスピードが速くなれば速くなるほど、不可避的に、迅速さ、騒音、汚染、特権の享受が人びとのあいだで配分されるしかたに歪みが生じるということを、もちろんわたしは認識していました。しかし、わたしが強調したかったのはこのことではありません。たとえば、高速化によってかえって時間がかかるようになること、健康管理によってかえって病気が生み出され、教育によってかえって愚鈍がつくりだされるということです。みせかけの便益の不平等な配分も、否定的な外部不経済の不平等な負担も、こうしたわたしの基本的な議論から引き出される系なのです。
                (桜井直文監訳『生きる思想』、55ー65頁)

 
「共有化」と重なるのが「コモンズ(共同地 共有空間)」で、イリイチも1980年代にこの言葉にすでに言及しているが、最近もマルクス研究者で経済学者の斎藤幸平さんらが、いろいろなところで取り上げ、少しずつ認知されるようになってきている。しかし、この「コモンズ」の回復(取り戻し)については、過去のありようはともかく、現在においてどう「回復」するのか(できるのか)、そこはまだ未知な部分が多い感じがする。
 商売や生活が成り立つことが第一なのは言うまでもないから、成長・分配政策によって貧窮をある程度緩和するのは大切なのだが、それができたとしても、「コモンズの回復」のことは引き続き考えていかなければいけないと思う。




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