ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

戦場から帰る兵士たち 

 「月命日」(月忌)というのはあまり気にしてこなかったが、先日知人に母親と父親の月命日が続いていると言われて、「ああ、そうだ」と気づいた。
 今日、父親の忌日。一月の早かったことを思う。
 
 亡くなった人と向き合うに、アフガニスタンから帰還したアメリ軍兵士の心が蝕まれているという毎日新聞の記事を2つ思い起こす。

1つめは、9月9日付の一部。

「9・11」後の20年:あの日から アフガン従軍兵、心の傷 仲良い子供ら爆死 | 毎日新聞

薬物に溺れ除隊 米帰国後、牧師に
 黙々と子供たちの肉片をかき集め、飛び散ったからだの一部を拾って回った。砂ぼこりのなか、トラックの荷台に遺体を積み込み、駐屯地に帰ると両手を漂白剤で洗った。からだが鉛のように重かった。米海兵隊として「敵を殺す訓練」を受けてきた。得意でもあった。ただ、子供たちの遺体を片付けたトーマス・バークさんの心は、ばらばらに張り裂けていた。当時20歳だった。
 アフガニスタン南部ヘルマンド州ナワ。2010年1月のある日の昼下がりの出来事だった。犠牲になったのは駐屯地の近くの村に住む子供たち。村の外れで携行式ロケット弾の不発弾を見つけ、駐屯地に届けようと運んでいる途中で爆発した。調査のために駆けつけたバークさんが目にしたのが、弟のように可愛がっていた子供たち8人の変わり果てた姿だった。
 米軍は当時、ナワからイスラム主義組織タリバンを追い出し、現地の住民らと良好な関係を築こうとしていた。約半年前にナワに派遣されていたバークさんは村の子供たちの人気者だった。赴任前に現地のパシュトゥン語を習っており、ひげも現地のアフガン人のように伸ばしていた。「バーク・ムハンマド」。親しみを込めてそう呼ばれた。
 バークさんがパトロールしていると、村の子供たちは笑いながら付いてきた。歩を緩め、突然に走り出すと、歓声をあげて追いかけてくる。時には川で一緒に泳ぎ、広場でサッカーをして遊んだ。タリバンが仕掛けた即席爆破装置(IED)の場所を教えてくれることもあった。
 「不発弾を米軍に届けてほめられたかったに違いない」。爆発事故の凄惨(せいさん)な光景は何度もバークさんの頭によみがえり、悩ませ続けた。事故から約2カ月後、バークさんは夜に泣きながら起きると駐屯地を抜け出した。近くの川辺にたどり着き、ライフルの銃口を口に突っ込んだ。「この苦しみに終わりはない。逃れるには死ぬしかない」
 引き金に力を加えようとした時、朝日が昇り始め、川を黄金色に照らし出した。その美しさに目を奪われて、ちゅうちょしていると、心配して駐屯地から後をつけてきた友人の声が聞こえた。駆け寄ってきた友人にしがみつき泣きじゃくった。

<以下略>

続いて、9月11日付の一部。年齢は省いた。
「9・11」後の20年:検証ザ・ロンゲスト・ウオー/上(その1) 米軍人、絶えぬ自殺 PTSD多発、戦死の4倍 | 毎日新聞
「9・11」後の20年:検証ザ・ロンゲスト・ウオー/上(その2止) 「誤った戦争」 傷つく米兵 | 毎日新聞

アフガン派遣後「無用な存在」
 爆音を立てながら空中停止するヘリコプターから米兵7人が次々と地上に飛び降りた。05年9月、アフガン東部の山間部。ミッションは米同時多発テロの首謀者で国際テロ組織アルカイダの指導者、ビンラディン容疑者の側近の捕獲だった。
 地上に降りた瞬間に銃弾が雨のように降ってきた。敵が高所で待ち伏せていた。1人が脚を撃たれて倒れた。マイケル・カラスキロさんは岩陰から救助に飛び出した。仲間を岩陰に引きずり込んで助けたものの、自らも5発の銃弾を右肩や左腕、胸などに受けて瀕死(ひんし)の重傷を負った。
 2年間の入院で44回の手術を受けたカラスキロさん。退院と同時に軍を辞め、米東部ペンシルベニア州の森に家を購入した。「誰にも会いたくなかった。ゆっくりと過ごしたかった」
 引きこもりがちだったカラスキロさんが本格的に体調を崩したのは09年秋。不安感や孤立感などの感情が入り乱れ、眠ることができなくなった。午前3時に家の外を見回り、人との接触も極端に避けた。「自分が社会に無用な存在に思え、自暴自棄になっていた」。自殺も頭にちらつくようになっていた。
 カラスキロさんを救ったのは09年暮れにかかってきた一本の電話だった。入院時に登録していた退役軍人の支援団体「傷を負った戦士のプロジェクト(WWP)」の男性会員からアメリカンフットボールの観戦に誘われた。思い切って参加すると、多くの退役軍人と出会った。「初めて同じような境遇の元兵士と会った。体調が回復している人もいた。自分も変われるのではと思えるようになった」
 病院にも行き、心的外傷後ストレス障害PTSD)と診断されたカラスキロさん。WWPなどで精神的苦悩の対処方法を学び、徐々に自分自身を受けとめられるようになったという。現在は、東部メリーランド州で退役軍人の交流グループの運営にも携わる。「WWPが外の世界に引っ張り出してくれていなければ、自殺していた」と振り返る。
 同時多発テロに端を発したアフガン戦争と03年からのイラク戦争を抱え、米社会は疲弊した。米ブラウン大ワトソン研究所が6月に公表した報告書によると、同時多発テロ以降の戦闘行為で死亡した米兵は7057人。しかし、自殺した現役兵士と退役軍人の合計は4・2倍超の3万177人に上る。一方でアフガンでは推計4万6000人以上、イラクでは18万人以上の民間人が犠牲になった。

アフガン「敗走」募る憤り
 「戦争が終わったとしても、退役軍人に必要な精神的なケアに終わりはない。むしろこれからが重要だ」。アフガン戦争やイラク戦争などに従事した退役軍人を支援する団体「傷を負った戦士のプロジェクト(WWP)」で精神衛生の専門家を務めるライアン・クールスさんはそう強調する。
 現在、WWPには約20万人の退役軍人とその家族らが登録している。同団体が2020年5~6月に実施した調査によると、退役軍人ら約2万8000人のうち約30%が「過去2週間以内に自殺を考えたことがある」と回答している。
 退役軍人らはどんな理由で自殺まで追い詰められるのか。米ブラウン大ワトソン研究所の6月の報告書は▽戦場での過酷な経験による心的外傷やストレス▽軍隊の厳しい規律や訓練▽退役後の市民生活への適応の難しさ――などを挙げる。
 さらに同時多発テロ以降の特徴として、即席爆破装置(IED)の普及とそれに伴う外傷性脳損傷(TBI)の増加を強調。イラクやアフガンの武装勢力が手製のIEDを多用し、米兵らは現地で常に爆発の危険にさらされた。そのストレスや、IEDの爆風で脳に損傷を負うTBIを患い、自殺リスクを高めていると指摘している。WWPでは、精神的苦悩の対処方法を学ぶワークショップから野外活動までさまざまなプログラムを用意し、退役軍人らの社会復帰をサポートしている。

 一方で、退役軍人らの心に新たな影を落としているのが8月末のアフガン戦争の「終結の仕方」だ。米主導の民主化は失敗。米国民の一部や米軍に協力したアフガン人を置き去りにする形で米軍は「敗走」した。
 米メディアによると、首都カブール陥落(8月15日)以降、退役軍人省が設ける自殺予防の緊急ホットラインへの電話数は急増しているという。退役軍人らで作る非政府組織「VFW」(会員約150万人)のワシントン事務所広報局長、ロバート・クートゥアさんは「退役軍人らは結果を出せたと自負してきただけに非常に傷ついている」と憤りを隠さない。

<以下略>

 むかしヴェトナム戦争から帰還した兵士が普通の市民生活に適応できなくて、森の中で暮らす様子を紹介したドキュメンタリーがあったと記憶する。特殊訓練を受けてきた兵士は、平和時であっても、背後から「よう、久しぶり…」などと肩を叩かれただけで、相手を「瞬殺」してしまうという。
 あるいは、NHKの「映像の世紀」では、第一次世界大戦の従軍兵が戦後にシェルショック Shell Shock と呼ばれる戦争後遺症に苦しむ生々しい姿も紹介されていた。砲撃や砲弾 Shellの轟音にさらされ続けたせいで、体の震えが止まらなかったり、イスやベッドにじっとしていられなかったり…。見るのも惨い。

 こういうのはもう終わりにできないかと切に思う。




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