ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「車いす少年の違和感」

 昨日のブログでも引用した前自民党幹事長で元総裁の谷垣禎一についての毎日新聞の記事。台所のテーブルの上においたままだったので、一面トップのこの記事の見出しを見かけるたびに違和感を抱いていた。
 「こういうのが障害者なんだ」――これは谷垣氏自身の言葉として記事の中で紹介され、見出しになった文言だ。自転車事故で頸髄(けいずい)を痛め、電動の車椅子生活を余儀なくされた谷垣氏にとって、
「障害者という存在について一定の理解をしていたつもりでした。でも、頭で考えていたのと、自分が現実に障害者になるというのは全然違うことでした。『ああ、こういうのが障害者なんだ』」
というのは実感だろうとは思う。
 しかし、こうして新聞の見出しとして切り取られると、やはり釈然としないものが残る。これは、8月29日付朝日新聞デジタルの記事、「車いす少年の違和感」「障害のある人ってなに?」という記事に通ずるものがあるように思える。

パラ学校観戦は「ふれあい動物園?」車いす少年の違和感:朝日新聞デジタル

 新型コロナウイルスの感染拡大が続くなか、その是非が議論になった東京パラリンピックの「学校連携観戦」。車いすに乗っている16歳の少年(タケヒロさん)は、全く違う視点から、疑問を投げかけた。
 「誰と交流するかは自分で決めるし、僕は触れ合い移動動物園じゃない」。パラの開幕前日、ツイッターに投稿した。

<中略>
  パラリンピック開幕前日の23日。タケヒロさんはツイッターでこうつぶやいた。
 「障害のある人ってなに?」
 新型コロナウイルスの緊急事態宣言下で開催されるパラリンピック。あるテレビ番組では開催の是非だけでなく、「学校連携観戦」が話題になり、出演者のひとりが「障害のある人と子どもたちが話す機会を設けてほしい」と発言した。
 番組でのそのやりとりを紹介したツイートを見たとき、タケヒロさんが思い出したのは、特別支援学校と地域の小中学校の交流のことだった。
 タケヒロさんが入学したのは自宅近くの特別支援学校だった。タケヒロさんの病気を理由に地域の小学校からは「リスクがあり、対応できる教員がいない」などと断られたからだ。

校長の言葉に「自分は教材なのか」
 一方で、特別支援学校と地域の小中学校の生徒が交流する制度があり、地域の小学校の校長先生からこう言われたという。
 「君がうちの生徒と交流してくれたら、学ぶことがたくさんあるんだよ。触れ合いを大切にしたいのでぜひまた来てください」
 自分は教材なのか。まるで、「触れ合い移動動物園」みたいじゃないか――。
 障害がある子どもの多くは特別支援学校に通い、地域の小学校に通う子どもたちと交わることはほとんどない。

 タケヒロさんはツイッターでこう続けた。
 「話す機会が必要と感じるなら、なぜ幼稚園から健常と障害を分けた場所で教育するんですか?」
 「大人の都合で分断しておいて、話す機会が必要とか意味がわからない」
 特別支援学校と地域の小中学校の交流は、特別支援学校の生徒が保護者に付き添われて地域の学校に出向き、授業に参加するというパターンだ。
 母親のユウさんも「お互いが見ている景色を知る制度になっていない。地域の学校の生徒が特別支援学校を訪れることがあってもいいのに」と言う。

パラリンピックに「複雑な気持ち」
 「障害のある人ってなに?」という問いは、パラリンピックにも向けられている。
 タケヒロさんは心臓病のため激しい運動ができず、オリンピック(五輪)やパラリンピックには関心がなかったが、大河ドラマ「いだてん」を見て、1964年の東京五輪開催にいたる歴史を知り、次第に興味がわいてきたという。
 テレビでみたパラリンピックの開会式には、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者で一般社団法人「WITH ALS」代表の武藤将胤(まさたね)さんが出演していた。「TKマガジン」で対談した相手だ。「活動をともにしたことがある人たちが登場していてよかった」と思う半面、複雑な思いもぬぐえずにいる。
 タケヒロさんのように内部障害を抱えていると、スポーツそのものが難しいケースも少なくない。専用の車いすに乗ったり義足をつけたりしたアスリートたちは超人のようにみえる。
 「パラリンピックの選手たちには尊敬の気持ちしかないけれど、出場しているのは選ばれた人たち。入場行進を見ていても、ストレッチャーで寝ているような重度の障害者はいない」
 パラリンピックは本当に勇気を与えるメッセージになっているのだろうか。タケヒロさんはいまも悩んでいる。
 「オリンピックの精神でやるならば、障害と健常などわけずに、それぞれが工夫されたスタイルで同じスタートラインについて競技すればいい」
 ツイッターではそうつぶやいた。

学校連携観戦、「やめたら?」
 冒頭のタケヒロさんのツイートは3日間で3千回ほどリツイートされ、8千件あまりの「いいね」が押された。
 これまでも同じような趣旨の発信をしてきたが、「これまでより反応がよく、否定的な意見も少なかった。コロナ禍で差別や分断への懸念が強まっているのかな」とも思う。
 社会は、障害者とどう向き合えばいいのか。
 タケヒロさんは「学校連携観戦のようにみんなで参加するようなイベントは、もうやめといたらいいのに」と話す。
 「関心がある人だけが参加する形でもいいんじゃない? そもそも、障害がある人と交流したほうがいいんだったら、最初から社会をわけなければいいんだから」
 今回のパラリンピックをきっかけに社会のあり方が変わっていってくれたら。障害のある当事者のひとりとして、そう願っている。


 むかし学校で働いていた者として、少々言い訳をすれば、学校の裁量(度量?)もあるが、小生が勤めたいくつかの高校では、障がいの程度によっては入学を認めていて、実際、車イスの生徒やダウン症の生徒もいた。彼らの受験や入学にあたっては、相応の環境や体制を整えなければならないのはもちろんだが、余程の理由(支障)がなければ、学力検定をパスしている生徒の入学を拒むことはできない。また、入学した以上は、他の生徒と同様、一緒に卒業させなければならない。
 障がいのある生徒が入学すると、他の生徒も穏やかになると感じることは多々あったが、それはあくまで小生が経験してきた範囲内の一般論や結果論である。何かのきっかけで関係が壊れれば、逆に「障がい」を理由にされることだってありえただろう。

 パラリンピックばかりに「障がい者スポーツ」を代表させることには異議がある。それはさておき、おとなたちは、ことさら「障がい者」にどう向き合うかを問題にするが、むしろ「障がい」にどう向き合うかを子どもたちに見せることの方が大切なのではないか。
 「障がい者」は何らかの「障がい」をもつ人であっても、「障がい」ではない。「健常者」だろうが「障がい者」だろうが、個々の人格に変わるところなく、たとえば、自分に対して相応の敬意が払われないと感ずれば、不快に思うだろう。「見せ物」を見るような視線を感じればなおさらだと思う。 



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