ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

断片的すぎる随想

 今日は新聞を読みながらの断片的でまとまりのない随想を少し。

 昨日ふと思い立って、亡くなった父親の姿が映った紙をパウチ加工した。父親を預けていた施設のリハビリ担当の方が写したもので、6月に父親と面会した際にいただいた。表面をコーティングしておけば、写真と同じで長持ちすると考えた。歩行訓練のさなかにいきなり映されたのだろうか、やや驚いておどけたような顔をしたものと、何かうれしいことでもあったのか、目を細めて笑っている顔とが二つ並んでいる。父親が写真に写った最後の姿だ。このときはまだ元気だったのにと思い返す。

 父親はほとんど耳が聞こえず、障害者手帳ももっていた。今開かれているパラリンピックは「障がい者スポーツの祭典」と言われるが、聴覚に障がいのある人は出場していない。彼らの出場の場はパラリンピックではなく、「デフリンピック」だ。パラリンピックが喧伝されるなら、ろう者のオリンピックであるこの「デフリンピック」の方にももっと目が向けられていいはずだと思う。もっともこのコロナ禍に大会を開くこと自体は問われなければならないし、オリンピックとパラリンピックのセット開催にも議論があってしかるべきだ。この真夏の炎天下の東京で、パラ選手もトライアスロンやマラソンをするなど、正気の沙汰ではない。ちなみに、次回第24回夏季デフリンピック競技大会は今年の冬にブラジルで開催される予定だったが、コロナの感染拡大により、来年5月に延期されたとのこと。

 今朝の毎日新聞のトップは自民党の元幹事長で総裁でもあった谷垣禎一の記事。東京パラリンピックを楽しみにしていたという谷垣氏。自身も不慮の事故で障がいを負い、電動車いすでの生活を送っている。8月28日付記事より一部引用。

迫る:谷垣禎一さん、車いすでも諦めない 「自助」とパラリンピック | 毎日新聞

当事者でないと分からない「苦労」
 東京パラリンピックの競技が始まった25日、谷垣さんは自宅でテレビ観戦し、ある女性選手にくぎ付けになった。静岡・伊豆ベロドロームの傾斜した木製走路を、黒い自転車で疾走する自転車代表の杉浦佳子(けいこ)選手。女子3000メートル個人追い抜き(運動機能障害C1~3)で自身の日本記録を更新するも5位となり、悔しさから目を赤くしていた。谷垣さんは「よく頑張った。まだロード種目もある」とエールを送った。
 2019年2月17日、谷垣さんは杉浦選手と対談した。2人は同じ年に自転車事故に遭った。杉浦さんは、薬剤師をしながら16年4月に出場した自転車ロードレースで転倒し、頭などを骨折、記憶力などに支障をきたす高次脳機能障害になった。右半身にまひが残り、三半規管も損傷したため、カーブで曲がる時に前を走る人の体の傾け具合を見て、同じ動きをすることでバランスを取る。
 その話を聞いた谷垣さんは「自分の体にうまく機能しないところがあって、それをどう乗り越えるかというのは、みんなそれぞれ違う。どこで何を苦労しているかというのは、当人でないと分からないと改めて感じたんです」。
 対談1週間前の19年2月10日、谷垣さんは久しぶりに公の場に姿を見せた。東京都内のホテルで開かれた自民党大会。「私が楽しみにしているのは東京オリンピックパラリンピック。なかんずくパラリンピックです。自分が障害を負い、『障害というのは一人一人抱えている課題が全部違う』と感じています。パラアスリートがそれぞれの課題をどう乗り越え、どう勇気を振り絞って大会に挑戦されるのか。ぜひ拝見したい」。張りのある声でスピーチした。

今かみしめる「自助、共助、公助」
 政治家としては、温厚な人柄と高い政策能力で知られた。00年の「加藤の乱」で、野党の森喜朗内閣不信任案に同調しようとした加藤紘一氏に「大将なんだから1人で突撃なんて駄目ですよ」と訴えた場面は政治史に残る。
 09年からの野党時代は、火中の栗を拾うように総裁として党を支えたものの、政権復帰を目前にした12年の総裁選では、派閥長老らによる「谷垣降ろし」で立候補を断念。その後、安倍晋三首相(当時)から14年の内閣改造・党役員人事で幹事長に登用された。総裁経験者が幹事長になるのは初めてで、それが最後の役職。総裁を務めながら首相の座に就くことなく政界を退いた。
 1983年の衆院初当選から33年。議員人生について谷垣さんは「何をやるために国会に出て、何を果たしたのだろうかと思うと内心じくじたる思いばかりです」と振り返る。それでも後進に与えた影響は決して小さくない。菅義偉首相が目指す社会像として語る「自助、共助、公助」。元々は自民党の野党時代に総裁の谷垣さんが掲げたスローガンだ。障害者となった今、その言葉をかみしめる。
 「『自助』は、新自由主義的な『自己責任』に偏った言葉だと批判される。でも、そうじゃない。私程度の者であれ、パラスポーツで頭角を現すような選手であれ、自分で自分の体を動かしてパフォーマンスを少しでも良くしようという気持ちを持っています。助けてもらわないとできないことはあるけれど、自分で少しでも努力して自分の体が動くようにしようと」

 「自助」にそうした”新自由主義”のレッテルが貼り付いていることは否定しない。「自助」も自分自身を鼓舞する分には全然かまわないと思う。しかし同時に、これは金持ちや権力者が貧しい人間や困っている人間に向かって吐く言葉ではないことだけは強調しておきたい。サッチャー元首相の「社会なんてものはない」は間違っている。どんな人も砂漠に一人で生きているわけではないのだ。
 それはともかく、谷垣氏も言うとおり、「障害というのは一人一人抱えている課題が全部違う」。この言葉は「障がい者」という括りについてまわる閉じた危うさに気づかせてくれる。耳が不自由だった父親は確かに「障がい者」に「分類」されるが、こうした線引きが明確にできるほど、健常者と言われる人々と「障がい者」の間に距離があるわけではないし、「健常者」が「障がい」と無縁だったりするわけではない。大概の人は程度の差はあれ「障がい」に類するものを抱えながら生きている。悩みのない人がいないようなものだと思う。
 政治に仁義を持ち出したらマキャヴェッリに笑われるだろうが、もし、自民党が仁義に反してアベを神輿に担ぐことなく、谷垣総裁のまま2012年の選挙に臨んでいたら、今、こんな国の姿になっていただろうか?

 澤田瞳子氏の連載「日本史寄り道隠れ道」もおもしろかった。7月の末頃から、昼間は暑いが、夜にはコオロギの鳴き声が聞こえていたので、個人的には秋の気配はすでに感じていた。平安・鎌倉期の物語や説話も好きなので、こうした記事を読むのは楽しい。それにしても、10代までは昆虫と説話文学が好きなノンポリだったはずが、いつから政治評論などに関心をもつようになったのかと、苦笑してしまう。

 以下、8月29日付記事より引用。

澤田瞳子の日本史寄り道隠れ道:虫を愛でる 音を楽しみ、名付け飼い慣らす | 毎日新聞

…我々は現在、リンリンと啼く虫を鈴虫、チンチロリンと啼く虫を松虫と認識している。だがややこしいことに室町時代末期までは、リンリンと啼く虫は松虫、チンチロリンと啼く虫は鈴虫と呼ばれていた。それがどういうわけか入れ替わり、今に至っているわけだ。
 『源氏物語』の「鈴虫」巻には、光源氏がとある殿舎の庭を秋の野の如(ごと)く作り替え、虫を放つシーンがある。そこには、「秋の虫の音はどれも素晴らしいが、特に松虫が優れている」「ただ、わざわざ採ってきて庭に放っても、しっかり啼くものは少ない。(松虫=待つ虫という)名とは違って、寿命の短い虫らしい」「鈴虫は親しみやすく、にぎやかに啼くのが愛らしい」という述懐があり、これらはすべて松虫と鈴虫を入れ替えて読むと納得できる。つまり「鈴虫巻」は正しく現代語訳すると「松虫巻」というわけだ。
 ところで清少納言の主である藤原定子の従弟のひ孫に、藤原宗輔(むねすけ)という公卿(くぎょう)がいる。その控えめな人柄ゆえか院政期の混乱を見事に乗り切り、公卿の最高位・太政大臣にまで昇進した末、86歳の大往生を遂げたこの人物、実は「蜂飼いの大臣」という奇妙な仇名(あだな)を持っていた。自宅に多くの蜂を飼い、一匹一匹に名をつけていたためだ。
 『十訓抄(じっきんしょう)』という説話集によれば、蜂の側も自分の名を理解しており、宗輔が召し使っている侍に罰を与えたいと思ったときは、「なに丸、某(なにがし)刺して来(こ)(〇〇丸、××を刺して来なさい)」と命じると、ちゃんと指示された人物を刺す。宗輔が没してほんの数年後に編纂された歴史物語『今鏡』には、蜂の名を足高(あしだか)、翅斑(はねまだら)、角短(つのみじか)とつけていたとある。現在の猫の名づけに置き換えれば、体の大きなボス、斑模様のブチ、耳の小さなチビ、といった具合だろうか。

<中略>
 『十訓抄』によればある年の5月、上皇の御所で蜂の巣が落ち、蜂がぶんぶん飛び交って大騒ぎになったという。人々が刺されまいと逃げ惑う中、藤原宗輔が上皇の御前にあった枇杷びわ)の実を取り、皮を剥(む)いて高く差し上げると、蜂たちはそこにすべて集まって静かになったという。彼がどうやって蜂を手なずけていたかがうっすら推測できるエピソードだ。
 ところで12世紀から13世紀に成立したと考えられる『堤中納言物語』には、化粧もせず、貴族女性のたしなみであるお歯黒もつけない姫を主人公とする「虫愛(め)づる姫君」という話がある。様々(さまざま)な虫を集めさせ、召し使う少年にまで「けらお」だの「いなごまろ」だの虫由来の名を与えたというこの姫は、藤原宗輔の一人娘がモデルではと考えられている。実際、若御前(わかごぜん)とも呼ばれた宗輔の娘はなかなか風変わりな女性だったらしく、鳥羽上皇の前に男装して参上したという記録も残っている。
 なお宮崎駿のコミック『風の谷のナウシカ』はこの「虫愛づる姫君」の影響を受けており、実際アニメ映画版のサウンドトラックにも同様のタイトルの曲がある。だとすれば藤原宗輔が蜂を飼わなければ、我々もまたあのアニメ映画を見ることはなかったのかもしれない。




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