ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

1940年 幻影の東京五輪との類比

 先週から始まったオリンピックは1964年の東京大会と比較されることが多い。実際、今大会の誘致に動いた人々の頭の中は、「1964年の東京大会を、もう一度」だったし、自分も何となくそう思ってきたが、時代の前後を含めれば、本当に比較すべきは、64年大会ではなく、中止になった1940年大会のような気がしてきた。
 中止になったのならともかく、事実として開幕して進行中のオリンピック大会を「まぼろし」の大会と比較してどうするのか。単に今大会を「中止」すべきという思い入れが強いだけではないか。そう言われたら、確かにそうかもしれない。今の為政者たちの無能と無責任ぶりがよく戦中と類比されるにしても、時代状況はだいぶちがうのだから(おそらく)。
 だが、1940年の「まぼろし」の大会にも蠢く国内の利権はあった(よく調べてないが…)。1933年の国際連盟脱退以降、日本は国際的な孤立の道へと突き進んでいったように言われるが、当時の政府にしても、それが得策だとは思っていないし、1936年のドイツのベルリン大会のようにオリンピックを政治利用する算段も当然あっただろう。
 とすれば、あえて「中止」を決断させたのは、すでに踏み出していた戦争に足をとられ、オリンピックに予算を回す余裕がなくなったこと。要するに「戦時経済」が最優先だったということだろう。しかし、逆に言えば、日本の政府であっても(!)オリンピックよりも優先すべきことがあれば「中止」の判断はできるということだ。2020年、優先すべきことは明らかだった。それは、2021年の今も変わっていない。「判断停止」にさせているもの、それを厳しく問わなければいけない。
 オリンピック後のことを考えても、1964年の後よりも、1940年の後の日本の姿の方が、展開上似たものになる気がする。もちろん、そんな「展開」を望んでいるわけではないが…。

 一昨日、作家の島田雅彦さんの「特別寄稿」を読んでいて、そんなことを考えた。7月25日付毎日新聞より。

五輪というダークファンタジー 島田雅彦さん特別寄稿 | 毎日新聞

 1964年の東京オリンピック開会式を見た三島由紀夫毎日新聞に寄稿し、反対論者の主張に理を認めつつ、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」と書いたが、57年後の今大会では「これをやったせいで、日本人の病気は悪化する」という正反対の事態に直面する。新型コロナウイルスの感染爆発だけでなく、政治、経済、マスメディア、市民生活を蝕(むしば)む病巣が確実に拡大し、日本は敗戦も同然の状況に陥りかねない。誰もその責任を取らないところも、先の大戦と同じだ。開催をゴリ押しした人々は、事後の惨状の責任を追及されても、全員が貝になり、口を固く閉ざすのだ。

 終戦から19年後に開催された64年東京大会は、日本が人権、民主を尊ぶ普遍的国家として国際社会に復帰したことをアピールし、戦後復興と経済成長の成果を謳(うた)いあげる祭典としての大義はあった。強引な開発による弊害もあったが、大会をさらなる発展の起爆剤にする「成長期のオリンピック」だった。それに対し、今大会は大義もなく、成長も見込めない、関係者の利権配分のためだけに実施される、時代錯誤の「終末期のオリンピック」である。

 振り返れば、今大会は誘致の段階から不正と虚偽のオンパレードだった。ロビー活動での賄賂疑惑、新国立競技場建設過程でのゴタゴタと予算膨張、エンブレム盗作疑惑、猛暑問題、組織委の予算濫費(らんぴ)、会長の女性蔑視発言、不適切な開会式演出プランや人選、国際オリンピック委員会IOC)の拝金主義とぼったくり、委託事業者による中抜きなど、オリンピックのダークサイドがこれでもかというくらい露呈した。

……逆説的意味において、歴史上、最も成功したのは36年の第11回ベルリン大会だったかもしれない。
 ナチス独裁政権下のオリンピックは、反ユダヤ主義政策や他国の侵略計画を巧みに隠蔽(いんぺい)しつつ、アメリカの商品広告の手法を駆使し、古代ギリシャナチスのイメージを結び付けるために聖火リレーという儀式を編み出し、競技を通じてアーリア人種の優位性を誇示した。露骨なオリンピックの政治利用はここから始まったわけだが、アメリカも近代オリンピックの創始者クーベルタンナチスの接待と宣伝工作に乗せられ、ボイコットの声を封殺した。その4年後には日本が「紀元二千六百年記念行事」としてベルリン大会を模倣しようとするが、日中戦争拡大により幻となる。今回も誘致段階で、安倍晋三前首相が福島原発事故の「アンダーコントロール」発言をし、「復興五輪」の建前で国際世論を欺いたが、その隠蔽手法も「ナチスに学んだ」のだろう。復興は後回しにされ、仲間内で大政翼賛への回帰を夢見る「復古五輪」にすり替えられた。菅義偉首相の「コロナに打ち勝った証し」発言も「安全安心」発言も、現実離れした妄言だったが、IOCも東京都もその妄言に便乗し、オリンピックの黒歴史を反復した。オリンピックには常にナチスの影が付きまとうので、それを払拭(ふっしょく)するための努力を怠った途端、差別や蔑視、独善の体質が透けて見える。

 今大会で噴出した諸問題のほとんどはこれまで積み重ねてきたことの結果であり、ツケである。当初予算の4倍、ロンドン大会の2倍の予算を濫費しながら、しょぼさを感じてしまうのはなぜか? 感染対策の不備、運営上の混乱、選手村のみすぼらしさを見るにつけ、予算の使途に大きな疑念を抱く。「多様性」を謳いつつ、実態が伴わないテレビコマーシャルのような開会式も、観客がいたら、バッハIOC会長の長過ぎる能書きにブーイングが起きただろう。どうやら業務の委託を受けた広告代理店や人材派遣会社による中抜き、組織委員会の破格の待遇という内輪の利益誘導システムだけは万全に機能していたようで、大損失のオリンピックでも焼け太りした人々に対する怨嗟(えんさ)の声が上がるのは間違いない。

 市民にはパンとサーカスを与えておけば大人(おとな)しくしていると施政者は思っただろうが、パンもケチられ、サーカスの損失まで負担させられるとなったら、どれほど寛容な人でも施政者を恨み、呪うだろう。もちろん、サーカスに興じるも、白けるも個々の自由だ。選手も勇気と感動なんて与えなくてもいいので、無観客の競技場で、誰のためでもなく、自分のために孤独な戦いに臨めばいい。戦場には観客はいないものだ。自宅で、病院で、職場で、商店街で、被災地で、それぞれ孤独な生存のための戦いを強いられている市民と選手の連帯はリモートでも可能である。新たに登場したスターへの熱狂によって直面する諸問題をしばし忘れてもいい。その熱狂もすぐに冷め、怒りの矛先は再び「ずるい奴(やつ)ら」、「嘘(うそ)つき」に向かう。




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