ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「I am not NAKAYAMA」

 2019年12月、アフガニスタンで長年、用水路の建設や医療活動に取り組んできた中村哲さんが銃撃されて亡くなった。生前、中村さんは、「どんな山奥に行っても、日本人であることは一つの安全保障であった」と言っていた。それは、もちろん日本に平和憲法があるからという理由づけもできるし、中村さんのように海外で活動する日本の人に対する評価に根ざしているとも言える。あるいは、“かつて” の日本政府の、欧米寄りのスタンスをとりながらも、どこか優柔不断で曖昧な(旗幟を明らかにしない)外交姿勢に対する、過分な好意的評価であるかもしれない。

 評論家の佐高信さんは中村さんのことを「歩く日本国憲法」と呼んでいた。2019年12月5日付(亡くなった日の翌日の)追悼文にこんなことを書いている。

追悼・中村哲氏「アフガンを歩く“日本国憲法”」 | カドブン

……反米親日だったアフガンの人たちの空気も、これだけ日本がアメリカの属国化してくると、変わってくる。中村によれば、しかし、一時はこんな〝誤解〟があった。
「あれはお人好しの日本人がアメリカにだまされているんだ。かわいそうだ」
 日本人としては苦笑いするしかない〝誤解〟だろう。

 それにしても、いわゆる治安の悪いアフガンで「地域協力」をしている中村が、平和憲法こそが大事と強調するのは説得力がある。
「あれだけの犠牲を払った上でつくられたものだから、一つの成果じゃないかと思います。それを守らずして、国を守るもないですよね。だから、それこそ憲法というのは国の掟、法の親玉みたいなもんじゃないですか。憲法をあやふやにして国家をどうのこうのというのはおかしい。それで靖国の英霊がどうのこうのというのは、結局彼らをテロリストにしちゃうんですよね。……職業軍人と一般国民の犠牲の上に平和憲法ができた。決してアメリカが押しつけたのではなくて、日本国民がそれを受け入れた。それが戦後の原動力だった。それを壊すようなことをしたら、日本の国はどうなるのかというのが私の率直な感想です」

<中略> 
(作家・澤地久枝中村哲の共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波書店)の)終章で、…澤地は書いている。
「厄除けめいて日の丸を車のボディに描いてきた中村医師たちは、日の丸が危険防止の方法たり得ない状況に立ちいたったとき、日の丸とJAPANの文字を消す。自衛隊のアフガン介入の予測によって、日本人ボランティアの安全性はいちじるしくおびやかされるに至ったのだ」
 世界において平和憲法を掲げる日本こそが尊敬され、親しまれているのである。それを改めることは、まさに日本を壊すことになる。中村はそれを日々の暮らし、生き方において教えている。
 2013年6月6日付の「毎日新聞」夕刊でも、中村はこう言っている。
憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた」
 憲法九条が変えられたら、自分はもう日本国籍なんかいらないという中村は、九条の現実性を次のように強調する。
アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

 憲法の話はさておき、「敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。」という中村さんの言葉は重い。

 しかし、今、日本人であることが本当に「安全保障」になるだろうか、むしろ逆方向に進んでいるのではないかという疑念を持たざるを得ない。

 昨日(5月12日付)の、この国の防衛副大臣をしている中山泰秀Tweetとその後の釈明には驚かされた。
 以下、5月12日付NHKの記事より。

中山防衛副大臣「私達の心はイスラエルと共にあります」と投稿 | NHKニュース

投稿の中で、中山防衛副大臣は「あなたならどうしますか?ある日突然24時間で300発以上のロケット弾が、テロリストによって撃ち込まれ、愛する家族の命や家を奪われたら」としています。
そのうえで「イスラエルにはテロリストから自国を守る権利があります。私達の心はイスラエルと共にあります」などとしています。

中山副大臣は12日夕方、日本政府がイスラエルパレスチナ双方に自制を求めているなかで、投稿はイスラエルを支援していると受け取られかねないのではないかと記者団から指摘を受けました。
これに対し、中山副大臣は「テロリストのイスラム原理主義組織、ハマスがミサイルを撃っている。こうしたテロリズムをなくしてほしいということを訴えたいと思ったまでだ。政治家個人の考えだ」と説明しました。


 この方は役職付きの日本政府の一員である。「政治家個人の意見」を云々したければ、役職を辞めてフリーな立場で述べるべきだ。防衛副大臣が発した言葉は日本政府の代表、ひいては日本国民の考えだとみなされる。「私達の心」というのは「日本国民の総意」と同じだ。「個人の考え」というなら、「私達」ではなく「中山泰秀の意見」と訂正せよ。氏の言う「私達」に含められるのはごめんだと思う国民は少なくないだろう。小生もその一人だ。
 そもそも、ハマスの「テロ」で命や家を失う人のことが心配になるのに、イスラエルの攻撃で命や家を失う人がいることはどうして気にしないのか? こういうのを差別主義というのではないか? テロリズムがなくならない理由のひとつにこうした「差別主義」があることに思いをめぐらせるべきだ。
 差別や不公平の是正を求める声を無視し、力で抑えこもうとすれば、場合によっては、抑え込まれた側から「暴力」をともなう反撃があるかも知れない。いったん事が起こって交戦が始まれば、止まらなくなる。双方ともに「相手が先に攻撃した、相手が悪い」と言うだろう。
 「テロリズムをなくしてほしい」と「願って」いるはずの自身のメールが、逆にテロを誘発しかねない。そして、その対象が誰になるのか。この防衛副大臣は自身を「政治家…」と称しているが、想像力と政治的感覚を著しく欠いている。

 このような公人としてあるまじき発言を「個人の考えだ」で許し(流し)、これまでも許し(流し)続けてきたツケが、今後より目に見えるかたちで現れることを怖れる。

 I am NAKAMURA, not NAKAYAMA.



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