ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

軽信とシニシズムの同居

桜を見る会」前夜祭の明細書と領収書の件。野党側の提出要求にアベ側は応じず。
「ホテル側に確認したところ、明細書は再発行しないと確認した。宛先や金額が異なる領収書を発行はできないと聞いている」などと1月5日付で回答。
野党側の再質問状にも、「すでに記者会見などで回答しているとおりです」と1月12日付で回答。

安倍氏側 明細書・領収書提出を拒否「桜を見る会」前夜祭|TBS NEWS

 アーレント全体主義の起源を読んでいると、アベの嘘がいかに無恥で稚拙であるか、そして、それを許している国民が総体としていかにあざといか、しみじみ感じることが多い。こんな言い方は不適切で失礼だが、アーレントの言にしたがうなら、「全体主義国家」にさえなれないのがこの国の状況なのではと思えてくる。まあ、それは “皮肉” なことに、いいことなのかもしれないが……。

……虚構の世界を築くには嘘に頼るしかないのは明らかであるが、その世界を確実に維持するには、嘘はすぐばれるという周知の格言が本当にならないようにし得るほどの緻密な、矛盾のない嘘の網が必要である。全体主義組織では、嘘は構造的に組織自体の中に、それも段階的に組み込まれることによって一貫性を与えられており、その結果、純真なシンパサイザーから党員と精鋭組織を経て指導者側近に至る運動の全ヒエラルヒーの序列は、各層ごとの軽信とシニシズムとの混合の割合によって判別できるようになっている。全体主義運動の各成員は、指導層の猫の目のように変わる嘘の説明に対しても、絶対不変の中心的な運動のフィクションに対しても、運動内で各自の属する階層と身分に応じた一定の混合の割合をもって反応するように決められているのである。…… 

 軽信とシニシズムの同居が現代の大衆に見られる日常的な現象となる以前には、それはモッブのメンタリティーの特徴だった。双方の場合ともこの同居が成立したのは、絶えず変化し理解しがたくなってゆく世界にあって彼らが何事をもすぐに信じ、しかも同時に何事も信じず、一切を可能だと考えるのと同時に何ものも真実ではないと確信するようになったからである。軽信とシニシズムのこの同居はそれだけでも十分に奇異なものだった。なぜならそれは、軽信は未開の「無教養」な人間の特徴でありシニシズムは洗練され優れた精神が陥る悪徳であるという幻想の終わりを意味していたからである。この先入観に止めを刺したのは大衆プロパガンダだった。このプロパガンダは、どんなにありそうもないことでも軽々しく信じてしまう聴衆、たとえ騙されたと分っても、初めからみんな嘘だと心得ていたとけろりとしている聴衆を相手として想定し、それによって異常な成功を収めたのだった。全体主義の指導者が彼らのプロパガンダの基礎とした心理学的な仮定は正しかったのである。それはこうだった——途方もないお伽噺を今日吹き込まれた連中は、明日になってそのお伽噺が出鱈目だと確信するようになったとしても、その同じ連中はシニカルにこう主張するだろう、自分たちはもともとそんな嘘は見抜いていた、これほど見事にほかの人々を手玉にとれる指導者を持つのは自分たちの誇りだと。
(大久保和郎・大島かおり 訳『全体主義の起原3』 130-131頁)




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