たまたま見かけたのだが、高須クリニック・高須克弥氏がTwitterで村上春樹氏のインタヴューに噛みついたのだそうだ。
高須院長が村上春樹氏の発言を批判「先生は日本人ですか?」 | 東スポのニュースに関するニュースを掲載
そもそも「日本人ですか?」という批判の文言からして唖然とするが、村上氏がどんなことを語っているのか、「実物」(記事)をのぞいてみた。
12月27日付「ダイヤモンド オンライン」の記事から、村上氏の話のまとまりをふたつ概略引用する。
村上春樹氏インタビュー、首相が紙に書いたことを読むだけの日本は最悪 | DOL特別レポート | ダイヤモンド・オンライン
学者や芸術家は、どちらかというと浮世離れしていなければならないと思っている。片足は地面に着いているが、もう一方の足はどこか別の所に突っ込んでいる。それぐらいじゃないと、そもそも学者や芸術家にはなれない。
「一歩、向こう側」に足を置いているような人の意見は、必ず「固まった意見」に風を吹き込むから、世の中にとっても大事だ。政治家のような人が発する、世の中の「ある種の総体としての意見」を崩すわけだから。
それを「総体の意見とは違うから」、「現実離れしているから」と排除していくと、世の中が固まってしまう。柔軟性が失われていく。理屈ばかりで物を考えていくと、物事はうまくいかない。理屈をちょっと超えたところのものが入ってこないと、世界は滑らかに回転していかない。とんでもないと思えるような意見こそ、意外に世の中の役に立つものだと思っている。
だからとんでもないことを言う人が発言権を奪われ、排除されてしまうというのは、大変まずい。学術会議に総体の意見とは異なる何らかの問題があっても、むしろ問題があるからこそ大事にしなければいけない。
今の時代は、SNSやインターネットによって、意見がどんどんマス(集団的)なものになる。そういう時代にこそ、マスにはならない「個の声」の方が大事だと思っている。
政治の質が問われている。コロナのような事態は初めてのことなので、政治家が何をやっても、間違ったり、展望を見誤ったりすることは避けられない。そういう失敗を、各国の政治家がどのように処理したかを見比べたら、日本の政治家が最悪だったと思う。
自分の言葉で語ることができなかった。政治家自身のメッセージを発することができなかった。それが最悪だったと思う。
こんな混乱だから、人が間違ってしまうのは当然のことで、「アベノマスクなんて配ったのはばかげたことでした」「Go Toを今やるのは間違っていました」ときちんと言葉で認めればよい。国民も「間違うことは仕方がないよ、これからちゃんとやってくれればいいよ」と思うはずだ。
しかし、多くの政治家は、間違いを認めずに言い逃れをする。だから余計に政治に対する不信が広がっていく。そういう、日本の政治家の根本的な欠陥がコロナではあらわになったような気がする。
米国の大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、炉辺談話(ニューディール政策に当たり、ラジオ放送で展開した国民向けの政策説明)をした。英首相だったウィンストン・チャーチルも戦争中、ラジオで国民に語り掛けた。二人の時代に自分はまだ生まれていなかったが、ジョン・F・ケネディは当時中学生だったのでよく覚えている。彼もきちんと自分の言葉を発信できる人だった。
日本人であれば、田中角栄さんは話がうまかった。どこまでが本心か、よく分からないところはあったが。
こういう人たちと比べると、今の多くの日本の政治家はどう見ても、自分の言葉で語ることが下手だ。今の総理大臣も、紙に書いたことを読んでいるだけではないか?
元々日本人には、周囲を見ながら話をし、全体から外れるとたたかれてしまう面がある。こういう中でどう発言や表現をするかは、政治家の問題でもあり、同時に、表現を仕事とするいわゆる芸術家の問題でもある。
高須氏は「日本人が選んだ代表を最悪と言うのは日本人が最悪だと言っているのと同じだと思います。」と記しているが、「とんでもないと思えるような意見こそ、意外にも世の中の役に立つものだと思っている。だからとんでもないことを言う人が発言権を奪われ、排除されてしまうというのは、大変まずいと思う。」——この村上氏の言葉にならえば、高須氏の意見も“反面教師”のように「世の中の役に立つ」側面があるから、排除されるべきではないということになろうか(本意ではないけれども……)。
しかし、“排除”はなくとも、“反論”はありだろう。もう、何人かが書いているように、次の“反論”で十分だ。
「愛知県民が選んだ代表を最悪と言うのは愛知県民が最悪だと言っているのと同じだと思います。」
上の例はあまりよい例ではないが、こうした“往復”がなくなったら、それは民主主義社会とはいえない。紙に書いてあることを一方的に読み上げたり、質問に答えなかったり、嘘をついたりすることは、“往復”を阻害し、その前提を崩しているのである。
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