ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「政令による支配」 H.アーレント

 昨日は昼から雨が降り始めたので、外仕事はあきらめて、久しぶりに長時間、本を読んだ。古本で手に入れた『全体主義の起原』3巻本の「第2巻 帝国主義」。著者のハンナ・アーレントアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者。
 彼女の書いたものはどれも、緊張感というか集中力というか、神経を研ぎ澄ましていないと読み進めることができないものばかりで、小生にとっては骨が折れるが、読んでいるとたびたびハッとさせられる。今日読んだ範囲だと、官僚制について述べた箇所は、アベ・スガ政権をほうふつとさせるものだった。

 学術会議の会員任命拒否について、スガはきちんと理由を説明しない。本人の能力や性格の問題もあるかもしれないが、むしろ、「説明しない」総理大臣を担ぐ構造になっているというべきか。他の大臣や官僚たちも「お答えは差し控える」を当たり前のように連発しているのだから。この「言わない」ことの効能は、支配にとっては絶大なものがある。
 また、解釈変更や任命拒否の違法性を指摘されても、そもそも「法に支配される」のは一般国民であって、自分たちはその「法」を決める立場だと思っているから、都合の悪い法律は自分たちがやりやすいように変えてよいし、それを国民に説明すべき「責任」もない。まさに自分たちこそが主権者であり、国民主権の原理原則は存在しないかのようである。アベ政権時代の「閣議決定」の乱発も同じことの現れだろう。

 アーレントは、ロマノフ朝ロシア帝国ハプスブルクオーストリア=ハンガリー帝国の官僚制について、次のように書いている。

 法律学的に言えば官僚制とは法による支配とは反対の、政令による支配である。立憲国家においては権力は法の執行と維持にのみ奉仕するのに対し、ここでは権力は命令におけるのと同じようにすべての法令の直接の源泉となっている。更に法律は必ず特定の人格もしくは立法議会の責任において発布されるのに対し、政令はつねに匿名であり、個々のケースについて理由を示すことも正当化も必要としない。例外的事態においては已むを得ず発せられる緊急令はすべて緊急事態を正当化の根拠とせざるを得ないが、これはしかし時間的に限定されており、通則に対する例外として明確に認識されている。緊急事態において例外として認められることが専制においては通則となる。すなわち、臣民に対する権力の集中と無拘束性である。政令が一時的な緊急事態を根拠としてはいない専制においては、あらゆる「法律」は一切を超えた全能的権力の直接の流出と見え、権力自体は自己の存在の正当化を必要としない。なぜなら正当化を行うことは権力の絶対性を否定することにつながるからである。
 君主のために専制的支配を司るこの官僚制の見地からすれば、立憲的政府は限りなく劣った政府であり、それに固有の法律は支配に携わる者にとって余計な障害でしかない「罠」と思われた。またこれらの官僚は、彼ら自身は支配者の意思の執行者に過ぎないにもかかわらず、権力の行使においていかなる原則にも拘束されないという点で、つまり彼らの考えでは遥かに大きい自由を持つという点で、法律や憲法に縛られた政府より優っていると感じていた。同じく彼らは、立憲国家の役人は法律の適用に際して更に法解釈による抑制を受け、そのための直接的政治行為ができなくされているという理由から、これらの役人を見下していた。官僚は政令を執行するにすぎず、その政令は彼自身が発布したものではないにしても、彼は少くとも恒常的な広範囲の活躍をしているとの幻想を抱いていて、法律の細部に絶えず頭を捻らされている「非実際的な」役人、官僚にとっては政治そのものの具現である権力の場から締め出されている役人に対し、天地の差ほどの優越感を味わっていた。
 官僚にとっては、法律はそれ自体原理的にその執行から切り離されている故に無力である。それに対し政令は直ちに施行された場合のみ、そして施行されている間だけしか存在しない。その価値を決める唯一の基準は、それが適用可能か否かということである。こうした政令が理由説明も正当化も、時にはそれ相当の予告すらもなく執行される官僚制においては、政令は権力自体の具現であるかのように、そして官僚は権力執行の機関であるかのように見える。
…… <中略> ……
法律の地位を政令が奪った官僚支配においては、法的判断が下らないうちに絶えず行為がなされ、絶えず既成事実が生み出され、それに対しては異議など全く存在しないか、あるいは異議を実際上無意味にしてしまうような瑣事を極めたまさに「官僚主義的」な方法だけが許されているかである。政令によればきわめて迅速に結果が得られるのに反し、法律という経路を辿れば比較的遅くしか事が運ばないのは、性質からして当然である。………このような原理に基づく行政が事実上どのような外観をまとおうと、また買収が利くかそれとも「公正」であるかとは全く無関係に、それはつねに法律の無力を被統治者に実証して見せるだろう。 

(大島通義・大島かおり訳、同書199-207頁)

 スガを評して「独裁的」という語がつかわれるのを目にすることがある。平野啓一郎さんも、西日本新聞のコラムで「首相になったからには法律に違反しても構わないと考えているならば、立憲主義法治主義も否定する、恐ろしい、独裁的な政治思想の持ち主である。」と書いていた。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/668838/

 しかし、スガやアベの「独裁的」な政治思想を支えている「黒子」の存在にも注意を怠れない。人間と構造の両方を見ないといけないと思う。



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