ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「木綿のハンカチーフ」

 太田裕美さんが歌った「木綿のハンカチーフ」は懐かしい曲だ。1975年12月リリースというから、もう半世紀近くも前のこと。
 この歌は「作詞・松本隆、作曲・筒美京平」のゴールデンコンビの作品として長く親しまれてきた(筒美氏は先月7日に亡くなった)。朝日新聞デジタルに相方の松本隆氏のインタヴュー記事がある。11月13日付記事より一部引用する。(構成・定塚遼記者)

斬新だった木綿のハンカチーフ「こんな詞に曲書けない」:朝日新聞デジタル

 ――最初にコンビで手応えを感じたのはいつでしたか。
 太田裕美の「雨だれ」ですね。それまでが不真面目だったわけじゃないけれど、この方針で作っていこうと真面目に意思統一できたのがその時。その後続いた太田裕美のプロジェクトは非常にうまくいったんです。ソニーの担当ディレクターだった白川隆三さんを中心に、いい関係が続いて。歌謡曲はビジネスの側面が強いので、仕事をしている時は仲良くやっても、終わったら赤の他人、みたいなことも多いんです。でも、僕らはそうじゃなかった。ファミリーだった。京平さん、僕、太田裕美、そして白川さん。

 ――太田裕美さんのお話も出ましたが、「木綿のハンカチーフ」は筒美京平さんが松本さんの詞を見て「曲が書けない」と言ったと聞きます。どういった思いであの詞を書かれたんですか。
 アメリカのフォークソングは民話などがベースにあるので10番まで歌詞があったりするんですが、僕も、そういう曲を書いてみたいと思った。短編小説みたいな歌ができたら面白いんじゃないかなって。そこで、若い男女が遠距離恋愛のはてに心がすれ違ってしまうストーリーを書いたんだ。当時の若者のリアルを描こうと。それを京平さんに渡したんです。「すごくいい詞が書けたから」って。
 すると京平さんは、「こんなに長い詞はありえない」と文句タラタラ(笑)。京平さんって大抵そう。仕事のときはだいたい不機嫌。苦虫をかみ潰したような感じでいるのがスタイルなんだ。で、白川さんに文句の電話をかけたらしい。「こんな詞じゃ曲をつけられないよ」と。でも、白川さんは電話にでなかったんだ。飲みに出ちゃったらしくてね。当時は携帯電話なんてなかったから。
 でも、夜は「書けない」と不機嫌だった京平さんは、一夜明けて曲が出来上がったらルンルンになっちゃった(笑)。「いい曲ができた」ってみんなに自慢して、電話をかけまくったんだ。そんな京平さんはとっても珍しい。よっぽど自信があったんだと思う。ただ、誰が聴いても名曲なのに、ソニーはなかなかリリースをしなかった。

 ――画期的すぎたんですね。
 当時のアイドルソングは2ハーフといって、歌詞は2番までというのが普通。歌番組の尺の問題もあるからね。でも、「木綿のハンカチーフ」は4番まである。(渡辺プロダクション創業者の)渡辺晋さんが「こんなに長い曲は売れない」と、なかなか首をタテに振らなかったそうなんだ。

 ――松本さんはいま「木綿のハンカチーフ」についてどう思いますか。
 曲の良さが99%、1%は僕の詞(笑)。イントロのギターからすごくいい。京平さんは、レコーディングでいろんなギタリストに弾かせたみたいで、「あのギターは君が弾いたの?」って聞くと、3、4人が「そうだ」って言う。茂に聞いても「そう」って言う。みんな結局、もうよくわかんないんだと思う(笑)。


 歌の出だしは「恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で……」だが、小生のような千葉県の土着民には、この「東へ向かう列車」は「都会」へ向かう列車というイメージを結ばない。それは、どうも松本氏も同様で、2017年11月18日放送のTBS「サワコの朝」で語ったところによれば、当時のディレクターの白川氏が九州の出身で、「松本くんの歌はずっと東京で生まれ育った人の内容だから、地方の人にはうけない」と言われたため、「木綿のハンカチーフ」の詞は白川氏をテーマにして書いたものだという。これは松本氏がテレビで語っているところを偶然見たような覚えがある。

 それから、松本氏によると、この歌がヒットした最大の理由は「タイトルや歌詞に、敢えて「コットン」ではなく「木綿」という、当時でさえ、既に死語であった言葉を用いたことにあったのではないか」という。1970年代に「コットン」という語が日本語として定着していたような記憶はないが、むしろ、「ハンカチ」ではなく「ハンカチーフ」という語に「木綿」を結び付けたところが新鮮に響いたような気がする。

 最後に、小生にとって「木綿のハンカチーフ」が心に残る理由はもうひとつある。
 それはこの曲が出来る前、小学生の頃の冬の寒い日の午後、日も傾きかけた頃に、役場の駐車場の中を友達と二人で自転車で走っていて、石か段差にタイヤをとられて転んでしまったときのこと。膝をすりむいて、血が出てしまい、友達はおろおろして、誰か大人はいないか探していた。今考えれば、痛みがひいたらそのまま家に帰れる程度の傷だっただろう。たまたま通りがかった人に「友達が転んでケガをしてしまいました」と行儀よく訴える友達の姿を、痛い膝を押さえながら見ていた小生。すると、その人は、たぶん「大丈夫かい」とか何とか言いながら、ポケットから茶色の格子模様のハンカチ(いや、ハンカチーフ!)を出して傷口に当ててくれ、程なくして歩いて行ってしまったのだった。家に帰ると、母親が、「親切な人がいるものだね。役場の人かね。お礼を言わないと……。」といたく感心していた。その後、当人にお礼を伝える機会はついになかったが、洗ってもシミが少しだけ残るハンカチーフは、それ以降タンスの抽斗の右片隅にずっと保管されていた。本当にずっとだった。おそらく成人してもまだ保管されていたはずだ。それを朝、着替えをするたびに見てきたように思う。その間に太田さんの歌う「木綿のハンカチーフ」は大ヒットした(今思い返せば……)。

 目の前で同じようなことがあれば自分も同じふるまいをしなければと思ってきたが、そういう機会はなかった(あったかも知れないが、自覚はない)。しかし、そういう気持ちを半世紀もの間、何となく保てたことには、あの時、傷口にハンカチを当ててくれたこととともに、いやそれ以上に感謝したい。




↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村