ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「為政者の度量」 小島毅さんのコラム

 小島毅(つよし) さん東京大学大学院教授で専門は中国思想(儒教史・儒教思想?)。文庫版のご著書を昔読んだ記憶がある(……それ以上書けないのが情けない)。
 10月21日付京都新聞にその小島さんの「求められる為政者の度量」というコラムが掲載されていることを知った。

 どんな人にとっても、聞こえの悪い話よりは、よい話の方が好ましいし、敵対する人間たちに囲まれるよりは、気心の知れたお友だちの間にいる方が楽しいに決まっている。しかし、リーダーは組織を背負う立場にあるわけで、リーダーが自分の都合に執心するようでは困る。
 リーダー個人にも都合がよく、組織にも都合がよいならベストだが、リーダー個人に都合がよくて組織に都合が悪ければ、リーダーは立ち止まる必要がある。そんなとき、リーダー個人には都合が悪く組織には都合のよいことを進言する者がいたらどうするか。あろうことか、リーダーの都合に合わせて隠蔽や捏造するなど論外だろう。

 以下、渡辺輝人さんTwitterに転載された新聞記事より孫引き。

https://twitter.com/nabeteru1Q78/status/1318693938732019712


 「国家にとっての良し悪しを気にかけず、自分の地位を保つことだけを考えて権力者に迎合する連中を、国賊と呼ぶ」。
 儒教の古典「荀子」臣道篇の(しんどうへん)の文だ。国賊とは決して「自国政府の言うことを聞かない人たち」ではない。自国の権力者にこびへつらう者たちこそ国賊だ。この連中のせいで国家が衰亡するからである。
 「荀子」はこれと逆の立派な行いを、4パターン列挙する。国家のために進言して諫(いさ)める者、国家のために命を懸けて言論で争う者、君主の意向に逆らって国家を輔(たす)ける者、君主の指令に逆らって国難を払う者だ。
 これらの人たちを明君は尊重するけれど、暗君は自分に反抗する賊とみなす。立派な人物を遠ざけ、国賊を重用するのが暗君というわけだ。
 こうした思考を受け継いで、儒教では諫言(かんげん)を重んじる。為政者には諫言を聞き入れる度量が求められた。ある諫言を採用しない場合もその主張者を罰してはならない。そんなことをしたら今後は誰も諫言しなくなり、結局困るのは君主自身だからだ。
 中でも宋王朝は1032年に諫院(かんいん)という官庁をわざわざ設けて意気盛んな者たちを任用した。彼らは執政の大臣たちを批判することを職務とし、大臣たちは言論によって正面からその批判に向き合った。諫院は実際には派閥抗争の手段となってしまったが、しかしこの理念が大臣たちの暴走を抑制する効果をもたらした。
 紀元前1世紀の「説苑(ぜいえん)」という書物では諫言のやり方を5つに分類し、その5番目を諷諫(ふうかん)と呼ぶ(正諫篇(せいかんへん))。例え話などを使って婉曲(えんきょく)に諫める手法のことだ。私のこの文章もここまでは諷諫である。

 日本学術会議という組織がある。数の暴力によって近年の国会が機能停止状況にある中、現代日本の諫院の役割を担っている。従って、政権の意向と違う建白をすることもあるし、過去に政権批判をした学者をメンバーに迎えることもある。
 学術会議に投じられた国民の税金は、政権に追従する答申を書くのではなく、長期的展望に立って日本国・日本国民のためになるだろう提言を作成すべく使われる。
 東アジアのある国(Z国としておこう)にも国家予算で運営される学術組織がある。そこでは自国の栄光を自画自賛し、政府の最高指導者を翼賛する活動がなされている。学問の自由はなく、政権を批判するなど、とねもないことだ。
 日本学術会議会員候補6人の任命を政府が拒否した問題が明るみに出るや、政権支持勢力によって学術会議はZ国に通じているという噂(うわさ)が流された。
 事実無根だけれど、日本をZ国のようにしたくない思いが強すぎたが故の暴走だろう。ああそれなのに、多様な意見を認めないのではZ国政府と同じことになり、自己矛盾ではあるまいか。

 「説苑」正諫篇には次の有名な格言も見える。
「良薬は口に苦きも病に利あり、忠言は耳に逆らうも行いに利あり」。

 

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