ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

白井聡さんの「総括」3

 まず、白井さんに一言。一時の感情とはいえ、先日のTweetの件は猛省を望む。それで白井さんの書いた良質の文章が信を失うとしたら残念でならない。アベ政治やアベ的なものを無批判に受け入れることにためらいを感じる人が白井さんの文章から目を背けるのは、当の本人にとっても社会にとってもマイナスでしかない。これは叱声というより祈りに近い。

 今回、白井さんの「総括 その3」を読んだ。
 アベの政権私物化はよく言われるが、アベ側近による政治の「私物化」も相当だ。彼らはアベに忠誠を誓うこととひきかえに、「ある種のフリーハンド」を得て、エリート官僚として自分が温めてきたものを強力に実現できた。これは「高級官僚冥利」に尽きる……と述べられているが、この「強力」にの中に、法秩序の無視・破壊が含まれるとしたら、それは本来的に法秩序の内にある官僚の体質とは相いれないのではないか。そこにはやはり「アベ的」なもの、アベ個人の法秩序観のみならず、そのアベを支える勢力の法意識、法秩序無視(法によって縛られるという原則の無視ないし軽視)とつながっていることを疑う。
 
以下、『論座』9月5日付の記事より引用する。

【3】一部の官僚に途方もない権力を与えた「政治主導」
  7年余りの間に、この政権は専制政治に確実に近づいてしまった

【3】一部の官僚に途方もない権力を与えた「政治主導」 - 白井聡|論座 - 朝日新聞社の言論サイト


 安倍政権を形容するキーワードのひとつが「私物化」であった。
 私物化は法治の崩壊と表裏一体をなす。法治の反対は専制であり、専制政体とはつまり、国家そのものが専制権力の私物であるような政体である。7年余りの間に、この政権は専制政治に確実に近づいてしまった。
法が終わるところ、暴政が始まる
 それを象徴する出来事が、「官邸の守護神」と呼ばれた黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題であった(本年2月)。国家公務員法検察庁法における定年に関する規定の優先順位を逆にするという法解釈の変更を行なって定年延長を決めたというのだが、森雅子法相はこの変更を「口頭決裁」したのだという。行政の大原則である文書主義の否定である。
 新藤宗幸・千葉大名誉教授(行政学)は、「文書を残すのは国民に対する責任であり、歴史に対する責任なのです。だから、どの段階で何をしたのか、いつ最終決裁をしたのか、それが検証できるような仕組みになっているのです」。「そのことが全く分かっていない。こんな政権そうそうないよ。もしこれを許したら、法律に基づく行政なんてなくなってしまう」と憤りに満ちたコメントを残している。
 そして、この「口頭決済」によって発生した、黒川が定年を過ぎているにもかかわらず東京高検検事長の職にあるという事実を合法化すべく、検察庁法改正が目論まれる。松尾邦弘・元検事総長ら検察OBが、この法改正に対して強く反対して法務省に意見書を提出した出来事は、訪れた危機がどれほど深刻なものであるかを物語っていた。同意見書には次のような件がある。
 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
 専制権力が立ち上がり、暴政が行なわれようとしている、とはっきり警告がなされたのである。だが、かかる専制的権力の中心にいる安倍晋三という人物は、ヒトラースターリンのごとき怪物的独裁者には到底見えない。むしろ、総理の演説原稿にはあまりに多くのルビが漢字に振られていることや、水を飲むタイミングまでもが指示されている写真が出回ったりもした。
「お友達」政治のヴァージョンアップ
 ゆえにもちろん、安倍政権の権力の実態は、トップの指導力やカリスマ性にあるのではなく、それを支える者たちによる傀儡である、という見方は説得力を持つ。このことを証するかのように、最近ますます、内政外政を問わず側近の少数の官邸官僚が政策決定権を独占しているという報道が相次いできた。例のアベノマスクの一件も「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」という側近(=佐伯耕三総理秘書官・経産省)の囁きで始まったと言われる。
 ここに見て取れるのは、第一次政権時の「お友達」政治のヴァージョンアップ(?)版である。当時の安倍は政権与党内の「同志」を積極的に起用し、それが「身びいき」との批判を浴びたことが、早々に政権を投げ出すことになる原因のひとつとなった。第二次安倍政権の政権運営はかつての政権担当時の失敗から学んだ教訓を活かしているとよく評されるが、身の回りを側近官僚によって固めたこともその表れのひとつであったのだろう。近しくとも究極的にはライバルである政治家よりも、総理の恩寵によってのみ光を放ちうる役人の方が使いやすいはずである。
 制度的な面から言えば、2014年に内閣人事局が設置され、審議官以上の約600名の人事が、同局によって握られることとなった。これは、自民党政権民主党政権とを問わず、平成時代を通じて良きものとして求められてきた(はずだった)「政治主導」の制度的完成だった。問題は、その実態である。
 前川喜平・元文部事務次官は、安倍政権退陣に際して、「安倍政権は権力の維持、拡大のため人事権を100%どころか150%行使してしまった。『逆らう者は飛ばすぞ』という脅しが効いている」、「わずかに『面従腹背』の人もいるかもしれないが、今や霞が関の次官や局長のほとんどが官邸の言うことを何でも聞く人間になっている。簡単には正常化できない」とコメントしており、「政治主導」が実質的には官邸による官僚に対する強権的支配と化したとの見解を示している。確かに、森友学園事件や加計学園事件においては、この性格が色濃く表れた。
 しかし、官僚と政権の力関係は、あくまで相補的なものである。「総理官邸の七人衆」とも言われる側近官僚は、いずれも典型的なエリートコースを歩んできた高級官僚である。この人々は、安倍晋三に忠誠を誓うことによって、ある種のフリーハンドを手にしたとも言える。長期安定政権の下で自分の描いた政策の青写真を強力に実行できる状況とは例外的なものであり、高級官僚冥利に尽きるものであったはずだ。しかして、その成果は、例えば、今井尚哉・総理首席秘書官(=経産省)が対露外交交渉を取り仕切るといった珍光景を展開した挙句、悲惨なものでしかないように見える。
 そもそも総理側近の官僚の動向が具体名を挙げて盛んに報道されるという事態が異例であり、そのことは、第二次安倍政権の7年余がエリート官僚による支配がきわめて露骨に現れた期間であったことの証左となっている。小選挙区制導入による党執行部への権力の集中は族議員の消滅をもたらし、「政治主導」を狙った官僚人事の把握は各省庁の省益を削り取った一方で、一部の官僚に途方もない権力を与え、集中させたのだと言える。7人はその象徴であった。
3.11の反動形成としての安倍政権
 いま言えることは、ここには3.11、福島第一原発事故という失敗を否認してきたことの帰結が現れている、ということだ。あの事故は経済産業省東京電力といった「エリートの中のエリート」に寄せられてきた社会的信頼を崩壊させた。当時は民主党政権であったが、少なくとも私にとって、「色々と問題はあっても、あの人たちに任せておけば基本的には大丈夫」という感覚を完全に破壊した出来事だった。毎日流される原子力安全・保安院の記者会見の映像は、「炉心損傷は起きているがメルトダウンではない」といった不可思議な話をし続けていた。
 3.11以前から、日本の統治機構の内部で何か深刻な劣化が生じつつあるのではないかという疑惑は広がっていた。例えばその有力な証言となっていたのは、元外交官・佐藤優の『国家の罠』である。佐藤のほかにも、激しい政府批判を展開する元官僚(司法関係も含む、また中野剛志の場合は現役官僚)が次々と現れ、彼らの拠って立つ政治的立場はさまざまに異なるにもかかわらず、その批判の激しさは共通していた。彼らの批判は、「古巣や後輩を叱咤激励する」というよりも、自らが属した組織の根本的な否定につながる類のものだった。ひょっとすると日本の統治機構は崩壊しつつあるのか? 福島第一原発の事故は、この疑惑に決定的な裏づけを与えるものだった。
 したがって、あの事故のこの上ない教訓とは、「この人たちには任せられない」であったはずである。にもかかわらず、復活した自民党政権下で進行したのは、総理の絶大な庇護の下、一部の高級官僚にフリーハンドを与えるという状況の構築だった。安倍が国家を私物化し、安倍政権の実態が側近官僚による独裁であったとすれば、要するにこの政治は、一部の官僚による国家の私物化と呼ぶべきものではないか。
 これは逆説ではない。3.11という「平和と繁栄」の終わりを象徴する出来事の意味を全力で否認することこそ、2011年以降官民挙げてこの国と国民の多くが取り組んできたことにほかならないからであり、その頂点がもちろん2020東京五輪である。この「否認」が、3.11以降の国民的な精神モードであったのだとすれば、安倍政権は国民の期待によく応えたと言える。実に、安倍政権とは、3.11が国民に対して与えた精神的衝撃に対する反動形成であった。
 原発政策そのものについて言えば、当然これも否認に貫かれている。安倍政権の方針は「未曾有の事故を経験することにより世界一安全になった日本の原発を輸出する」という空理空論の極みへと達し、輸出プロジェクトはすべて失敗。この間、東芝はボロボロになりながら原発から手を退いた。他方、最新のエネルギー基本計画(2018年)で2030年の原発の電源構成比率が20%程度と設定されていることからわかるように、国内的にも原発依存を止める意思は全くない。
 この7年余りは、福島第一原発の事故を受けて世界中で自然エネルギーの技術開発へと資金と人材が投じられ再生可能エネルギーのシェアが増大した期間でもあった。とりわけヨーロッパではシェア拡大が目覚ましく、日本は大きく水をあけられた。文明の趨勢からすれば、原子力発電に未来があるとは到底思えず、再生可能エネルギーにかかわる技術を持っていることが国富に直結することになるだろう。3.11後の足踏みによる時間の空費は、日本の産業の未来にとって致命的な悪影響を及ぼしうるだろう。
3.11の反復としての新型コロナ危機
 そして、この統治機構は、新型コロナウイルスの流行という想定外の事態に直面することにより、その無能と不誠実をさらけ出した。
 日本における死者や重症者の数が欧米諸国に比べれば抑えられているにもかかわらず、政権の対応は広範な不満を呼び起こし、支持率を低下させ、そして安倍辞任の流れをつくり出した。感染拡大阻止に全力を挙げるべき局面で「お魚券」だの「お肉券」だのの発行が取り沙汰されたことは、国民の大衆的憤激を呼び起こし、一人当たり10万円の給付もあまりに遅かった。
 疲弊する医療機関と医療従事者の苦境は放置され、無駄な布マスク配布に大量の税金が投じられた。持続化給付金事業をはじめとして、対策予算は電通等の政商が公金のぶん取り合戦をやる対象となった。かくて、不安と不満が渦巻くなか、政権は国会を閉会し、臨時国会開催要求にもダンマリを決め込んだ。
 極めつけは、PCR検査の拡大の失敗であろう。安倍自身が検査体制の不備ゆえに十分な検査が行なわれていないことをはっきりと認め、「目詰まり」が起きていると5月4日に発言した。そこから4カ月が経つ。ところが、7月から8月にかけて第二波の感染拡大が生じるなかで、またもや取り沙汰されたのは「目詰まり」だった。
 私たちを襲うのは既視感である。あの福島第一原発事故の際、私たちは強烈な苛立ちを感じずにはいられなかった。「なぜ、一刻も早くベントしないのだ?」「なぜ、一刻も早く注水しないのだ?」と。そこには多大の物理的困難(もちろん準備不足もある)があったことがいまでは明らかとなっているが、最大限にイラつかされたのは、何か解決につながりそうな良いアイディアが提起されるとすぐに、政府筋から「法令上それはできない」といった類の反応が出てきたことによってであった。
 日本が終わるかどうかという瀬戸際にあって、「前例が!」「法令が!」と叫ぶ「選良」たち。前例のない事故への対応策が前例なきものになるのは当然であるし、法令がないなら、あるいは邪魔であるなら、新たな法令をつくればよいだけのことである。どういうわけか、この単純なことがやれないのである。
 新型コロナ危機において、本質的に全く同じものが回帰している。あるいは、同じものが3.11以降もこの国の中枢に居座り続けているということかもしれない。いずれであるにせよ、この国の統治機構は、東京医師会会長の尾崎治夫氏をして「国に頼ることは、もう諦めようと思います」と言わしめた。コロナ流行の最中に医療関係者のリーダーから決別宣言を突きつけられた政府が、世界のどこかにほかにもあるとは、寡聞にして聞かない。

<以下、略>





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