ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

内田樹さんの「安倍政権時代の総括」

 “フライング”が物議をかもしたが、昨日28日に「予定」どおりアベが辞任発表して「事なきを得た」(笑)内田樹さん。「内田樹研究室」にupされた「安倍政権の7年8カ月」を読んだ。

 アベの個人的資質はさておき、“アベ”が象徴する時代の日本が他国からどう見え、また、どうしてそういう国(の姿)になったのか。内田さんは、国が倫理的インテグリティ(廉直、誠実、高潔)を失い、国民(私)も国から離れ自己利益を追いかける、そういう国に国際社会はリーダーシップを求めることはなく、敬意を払わない。日本人はいまそんな国力衰微の中にいると言っている。

 しかし、最後の「誰の責任でもない」という一言が少々ひっかかる。アベのせいにしても始まらないと言いたのだろうか。しかし、「一億総懺悔」が「一億総無責任」になったように、「誰の責任でもない」というのは「みんなの責任」と言っているのと変わらない。「みんなの責任だ」とすれば、「責任を痛感する」だけの男もいるが、国民各自がそれぞれの場で「責任」について考え、行動するべきなのだろう。
 おそらく、マクロの倫理的インテグリティ喪失はミクロの倫理的インテグリティ喪失とつながっている。ミクロ世界にある日々の葛藤や闘い。人間はいつもエネルギッシュに問題や課題に立ち向かえるわけではなく、負担が少なくやり過ごせるなら、それにこしたことはないと考える。そこを、いつも「流し」てばかりにせず、たまには問題に向き合う。“決戦”を意識する。そうしたミクロ世界の連鎖がマクロ世界につながるものと思う。おおげさだが、そういうことなのだ。

内田樹研究室」8月29日付の記事から引用する。

安倍政権の7年8カ月 - 内田樹の研究室


 安倍政権7年8カ月をどう総括するかと問われたら、私は「知性と倫理性を著しく欠いた首相が長期にわたって政権の座にあったせいで、国力が著しく衰微した」という評価を下す。
 日本は今もGDP世界三位だし、軍事力でも世界五位の「大国」である。国際社会の中では「先進国」として遇されているし、米国の東アジアにおける最も信頼できる同盟国であるという評価も安定している。けれども、日本が「あるべき国際社会」を語り、その実現に向けて指導力を発揮することを期待している人々は国内外を探しても見当たらないし、経済的成功のための「日本モデル」や、世界平和の実現ための「日本ヴィジョン」を日本政府が提示するだろうと思っている人もいない。これだけの「国力」がありながら誰も日本にリーダーシップを求めていない。そのことに、われわれはもっと驚くべきだと思う。
 どうして国際社会は日本にリーダーシップを求めないのか?
 それは日本人が「倫理的インテグリティ(廉直、誠実、高潔)」というものに価値を見出さない国民だと思われているからである。そして、倫理的なインテグリティを重んじないと思われている国は、いくら金があろうと(もうあまりないが)、いくら軍事力を誇ろうとも、いくら「日本スゴイ」と自ら言い募っても、誰からも真率な敬意を示されることがない。
 勘違いしている人が多いが、人間は他者からの「真率な敬意」を糧にして、それを保持するためにさまざまな工夫をし、またさまざまな「瘦せ我慢」をして生きる存在なのである。人間は敬意なしには生きている気がしない。それはヘーゲルが直感した通りである。そして、日本はいつのまにか「他者からの真率な敬意」を誰からも寄せられない国になった。それが日本人が「生きている気がしなく」なった理由である。
 国が倫理的なインテグリティを持つとき、国民もそれを分有する。国が高邁な理想を掲げているときには(仮にそれがかなりの部分まで勘違いであったとしても)、国民はその国の一員であることを誇らしく思い、自分の英雄的な努力によって国運が向上することを願う。独立戦争のときのアメリカも、ナポレオン時代のフランスも、レーニンソ連も、国民が国家の運命とおのれ個人の運命がリンクしていると信じているとき、その国は強い。
逆に、国民の多くが「私の個人的努力の目標は自己利益の増大であり、私の個人的努力が国力増大に資するような直接的な回路は存在しない」という白けた気分でいるときに、国全体のパフォーマンスは下がる。日本はいまそういう国になった。なぜか、「国家主義」を標榜する安倍政権下で日本国民が失ったのは「私」と「国」との一体感だったのである。
 7年8カ月の安倍政権を眺めて来た国民が知ったのは、政治家であれ、官僚であれ、財界人であれ、メディアのトップであれ、彼らの行動は「国民全体の福利」をめざすものではないということであった。彼らは自分の党派、自分の支持者、自分の縁故者、自分自身のためにその権力を活用する。そのことを私たちは知らされ、受け入れてきた。「権力を自己利益のために使うことができるということが、『権力を持っている』ということである」というシニカルな事大主義をいま人々は「リアリズム」と呼んでいる。
「勝ったものは正しかったから勝ったのだ。多数を制した党派は真理を語ったので多数を制したのだ」という現実肯定の思考停止のうちに多くの日本人は埋没している。そして、それが劇的な国力衰微の理由だったと私は思う。
 実際に安倍政権が通した重要法案の多くは安保法制も、特定秘密保護法も、テロ等準備罪も、世論調査では国民の過半は「今国会で強行採決すべきではない」という意思表示をした。だが、政権はこれを強行し、支持率はいったんは落ちたものの、すぐに回復した。つまり、有権者たちは「この政権は私たちが反対しても何の影響も受けないほどに強大な権力を有している。そうである以上、服従すべきだ」という腰砕けな推論をし、それをして「リアリズム」と呼んできたのである。
 閉じられた政治的空間の中であれば、安倍政権はこの「リアリズム」を心理的基礎にして、あと数年あるいはそれ以上にわたって盤石の体制を続けられたかも知れない。しかし、この政治的リアリズムは新型コロナ・ウィルスによるパンデミックという「リアル」にはまったく通用しなかった。ウィルスの危険を訴え、適切な対応措置を求める国民についてなら、これを恫喝し、懐柔し、必要とあらばデータを隠蔽改竄すれば黙らせることができるが、ウィルスにはそのようなマヌーヴァーは通用しない。
 先般、世界23か国の人々に、コロナ対策に際して自国指導者の評価を求めたアンケートが行われた。日本政府の対応を「高く評価した」人は日本国民の5%にとどまった。世界平均は40%。中国は86%、ベトナムは82%、ニュージーランドは67%、死者数世界最多の米国でさえトランプを「高く評価する」国民は32%いた。
 この数字は感染を効果的に抑制し得たかどうかと直接相関しない。例えば、死者数の少なさだけを強調して、日本政府は「感染抑制に成功した」といつまでも言い張ることだってしようと思えばできたのである。けれども、日本国民は安倍政権が感染抑制についてはまったく無力だったということを知っていた。
 国難的時局において必要なのは、指導者が国民全体の福利と健康と安全をめざしていると「信じさせる」ことである。けれども、日本国民は、そんなことを信じなかった。「日本の指導層は自己利益のためだけに行動していて、自分の支持者にしか便益をもたらさない」ということをずっと前から「知っていた」からである。だから、内閣支持者たちでさえ、政権は「自分たちのために」何かよきことをしてくれることはあっても、全国民のために何かよきことをするだろうということを信じなかった。
 感染症は全国民が等しく良質な医療を受けることができる体制を整備することでしか収束しない。しかし、安倍政権は支持者のみに選択的に利得をもたらし、反対者には「何もやらない」ことによって「一強体制」の心理的基礎を打ち固めてきた。内閣支持率が30%を超えているのに、感染対策を高く評価するものは5%しかいなかったのはそのせいである。
 安倍政権は国民を支持者と反対者に二分し、「反対者には何もやらない」ことによって権力を畏怖し、服従する国民を創り出そうとしてきた。だから、彼が権力基盤を強固にするにつれて、日本人はどんどん「リアリスト」になり、誠実や正直や公平といった「きれいごと」をおまめに鼻先でせせら笑うようになり、そしてまさにそうした態度を通じて、国際社会において誰からも真率な敬意を示されることがなくなったのである。
 人間は他者からの敬意を糧として生きる。それを失ったものは「生きている気」がしなくなる。日本人はいまそのようにして国力の衰微を味わっているのである。誰の責任でもない。



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