ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

誤読と忘却

 安倍晋三氏の「誤読」事例は枚挙にいとまがない、というのはちょっと大げさだが、政権自体が長いこともあり、事例を拾い上げるとボロボロ出てくる。「云々(でんでん)」や「願って已()ません」はすっかり有名になってしまったが、「のら猫寛兵衛」さんが「安倍晋三誤読史」としてブログにまとめていて興味深く読んだ。以下に引用させていただく。

安倍晋三誤読史 〜誤読な散歩者の夢想 誤読のあとに:のら猫 寛兵衛:SSブログ

 人間誰でも「誤読」や「誤解」というのはあるわけで、ことさら晋三氏だけをその件で責めるのもどうかというのはあるにはあるが、立場を考えたら、“ありえない誤読”、“恥ずかしい誤読”は極力避けるように努力しなければならない。晋三氏が責められるべきなのは、個々の誤読の事実より、そうした「努力」の意図や痕跡がないことであり、それゆえに「誤読」を繰り返すことである。「何度も同じ失敗をしてはダメ!」というのは子どもに対する親や教師の叱責文句だが、晋三氏にしても、そうした叱責を受けたことが皆無ということはないだろう。しかし、本人には響かなかった可能性は高い。そしてまた、周囲もそれを許容し、諦めてしまったのかも知れない。
 安倍晋三氏の父親の晋太郎氏は生前、息子のことを「こいつは言い訳をさせたら天才的だ」と言ったとか。今のこの醜態を見てしまうと、「父親なんだからしっかり教育しろ!」と言いたくなるが、父親にしてもどこかの時点で「諦めて」いるのである。そして、晋三氏が体得したのは「言い訳」すればいいということだった。彼の周囲はそれを許容してきた。場面場面で嫌な思いをすることはあっても、そんなことはいちいち覚えていられない。とりあえず忘れる。忘れる……。本人も忘れる。忘れる……。
 でも、人間には忘れないこと、忘れられないこともある。それは感情にふれること。たとえば、親や子や友人や、一緒に過ごした時間を振り返ることのできる人たちが命を落としたり傷つけられたりしたときはどうか。命を奪ったものや傷つけた側を忘れることはない。
 65年生きてきた晋三氏にしても、そういう経験がないことはあるまい。政府という機関車の真ん中にいる今は考えられないことでも、外に出れば考えられるかもしれない。一刻も早く機関車から降りることを望む。

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