ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

対話を通して バフチンのポリフォニー論のこと

 ラジオでロシア語の勉強をしている。先日の放送ではノルシュテインというアニメーション監督へのインタビューでミハイル・バフチン(1895~1975)の名前が出てきた。バフチン!? 名前は知っているが、「肩書」を言えるほどよくは知らない。調べてみると、ロシアの「哲学者、思想家、文芸批評家、記号論者。対話理論・ポリフォニー論の創始者」などと紹介されている(本人は何と称していたのだろうか)。ドストエフスキーラブレーの作品の評論で知られるようになった人らしい。上に出てくる「ポリフォニー」についてはラジオの中でも少し解説されていた。こっちはやっと「初級文法」が終わったかな…程度なのに、まさかそういう話に出くわすとは思っていなかったのだが、一応調べてみると、「ポリフォニー」というのは複数のメロディーが同時に演奏される「多声音楽」のことで、バフチンはこの考え方をドストエフスキーの小説の分析に応用した。それによると、ドストエフスキーの小説では、作者の「声」がまったく優勢にならず(!)、登場人物を含めたたくさんの「声」の中のひとつに過ぎない。その結果、小説全体が何かひとつのアイディアや信念に支配されたり収斂されたりということがなく、独特の「場」をかもしだしている…ということらしい。小説の登場人物のセリフや対話が作者の意図や制御を超え出ている?! そんなことってあるのだろうか! そこで、たまたま見つけた桑野隆さんの『バフチン カーニヴァル・対話・笑い』を読んでみた。同じようなことが解説されている。さらに、「おっ?」と思ったのは、言葉(発話)は二つの方向性をもっていて、ひとつは発話の指示対象(話し相手)へ向かう方向性、もうひとつは、他者の発話へと向かう方向性だという(同書、100頁)。

 なるほど。確かに人が集まって話をすると、「予想外」の方向に話が進んでいくことがよくある。昔教員をしていたので、「ああ、これは授業のことだ」と思った。授業者=教員は一応「脚本」を準備して授業を始めるのだが、生徒が想定外の反応や答えをし、それを受けて、教員や他の生徒が様々な反応をし、……なんてことを繰り返していくうちに、「何だか今日の授業はたいして進みませんでしたが…」などと言いながら、こちらも生徒も苦笑、失笑しながら終わる……。しかし、授業のよしあしからすると、「脚本」どおりに進んだからといって「よい授業」だったかどうかはわからない。逆に、対話を通じて、脱線し、笑いに包まれて、何となく事後に楽しかったという授業もわりとあるからである。バフチンの分析では、ドストエフスキーの小説には作者自身が制御しない(できない)「対話」があるということなのだろう。もし、これを避けて何が何でも制御=「脚本」どおりにことを進めようとしたら、相手にかまわず一方的に講義するしかない。定期試験の前でまだ試験範囲がすべて終わっていない場合などはこうなる!? 生徒のほうも「試験前」だからしょうがないやと思っている(思わされている)から、何とか授業が成立するが、ふだんの授業でこういうことを繰り返すと、そのうち生徒は何の興味も示さなくなるだろうし、こっちも授業をしていても何のおもしろみも感じなくなるだろう。無味乾燥な時間。いやむしろ、有害。

 世界に拡がったコロナ禍の中、各国政府の対応を見ていると、いろいろなこと(ちがい)が見えてくる。現在、都市封鎖、緊急事態宣言…などというおどろおどろしい語が頻発している。志村けんさんが亡くなったことで危険を身近に感じた人は多い。しかし、自宅にいてくれと要請されても、生活の糧を得るためには外出して密閉空間の電車に乗らざるを得ないとか、密閉空間の店で客に対応せざるをえないという人は数知れない。自分がもし感染したら…、もし重症化したら…、もし知らない間に他人を感染させてしまったら…。そういう不安の中で、国の指導的立場にある人が国民に対して何をどう話すか、国民をどう安心させるかは決定的に重要だと思う。上の「ポリフォニー」の話からすれば、プロンプター(講話原稿表示装置)とかいうカンペを見ながら独演会のような説明をし、質問にもあらかじめ質問内容を聞いたうえで相手を見ずに下(回答原稿)を見ながら答えるなどという「記者会見」には、おおよそ「対話」が成立しておらず、「無味乾燥」、「有害」のそしりを免れない。何よりも相互不信を絵にしていて不快感を抱かせる。しかもそれが何度も繰り返されるというのは、やる側(主催側)だけでなく、受け入れる側にもこれでいいと思っている人が多いからなのだろう。なぜ? 今までそうやってきたから? 異議を立てると睨まれるから? めんどうなことになるのはごめんだから? でも、それでいいわけがない。各国の指導者たちの語り、それを見つめる外国の人々の様子を見ていればそれは明らかだ。 自戒を込めて、諦めてはいけないのだと思う。