ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

中井久夫さんのあるエッセイ

 精神科医中井久夫さんが8月8日に亡くなったことを知りました。
訃報:中井久夫さん 88歳=精神科医 | 毎日新聞

 中井さんのエッセイが楽しかったので、その感覚でむかし『西欧精神医学背景史』という著作を読んだら、まったく歯が立たなかった記憶があります。これは「別人」が書いたのではと思ったくらいで、改めて中井さんの「背景」にあるもの――その知識と裾野を感じます。

 そう感じたのは、Twitterに偶然中井さんがむかし書いたというエッセイを紹介する記事を見つけたからです(何か時系列が逆になりますが)。ああ、これが中井さんの「裾野」なんだと思いました。cuminさんのTweetから拝借して、一部文字転載します。
https://twitter.com/bacumin/status/1556838771227734017

「地図と版画の好きな少年にとって世界はその欲望の広がりに等しい」とは、フランスの詩人ボードレールのある詩の第一行である。その後に「思い出の中でそれは何と小さなことだろう!」と続くのだが、六十六歳の私が、まさに思い出の光の小さな輪の中で話しかけたい相手は、「地図と版画の好きな少年」、いや、もっと広く、知識に早く目覚め開かれた少年少女である。
 「自己実現」という言葉を先生がたはよく使われるが、自己実現にもいろいろあって、受験階段を上る勉強は、権力欲のほうの自己実現である。そうではなくて、知識欲、つまり世界を知ろうという自己実現もある。学校は本来、知識欲の場である。しかし、学校だけが知識欲の場でなく、学校だけで知識欲が満たされるわけでもない。そして「よい学校へゆくために勉強しなさい」という時は、学校はまさに権力欲実現への場所とみなされている。
 小学校時代をとおして勉強しなくてもよかったという人が身近にもいる。知には本能に近い面があり、なぜかわかってしまうのである。そういう人にとって学校は実は退屈な場である。だのに、努力しているふりをしないといけない場である。今、学級でほんとうにいちばん不遇なのは、そういう少年少女ではないか。
 学校は、昔も今も、足並み揃えて努力しながら進むことをいいとするところである。先生は揃った子どもほど教えやすい。できない子も叱られるが、「範囲」にない漢字を使うと咎められ、まだ習っていない解き方で数学を解くといけないとされるところでもある。

 学校は、進度や範囲を決め、知識に理不尽な枠をはめる場である。学校の授業に満足しない人は知識を隠し、知識欲を目立たないようにして過ごす必要がある。逆に見当違いの社会的上昇の期待を寄せられることもあるからだ。知るといういとなみは、友達がいてもいなくても、基本的には独りですることである。
 英国の数学者で哲学者だったバートランド・ラッセルは、ずっと独学だったが、ケンブリッジ大学に入学する資格を得るために、中学校に行かなければならなくなった。軍の学校に進学する生徒の多い学校で、彼は徹底的にいじめに遭い、授業が終わった後、何度か、自殺しようと学校を出て夕日に向かって歩いたが、その度に「もう少し数学を知ってから死のう」と思って後戻りしたという。
 敗戦直前、アメリカの飛行機が上空を乱れ飛ぶ中で、「この戦争がどういう形で終わるか、見届けてやろう」ということが、体育の一芸入試に近かったために中学進学の希望すら持てなかった私の生きる目標だった。それはほとんど知的好奇心だった。一年近く前、日本が沈めたというアメリカの戦艦の数を見て、アメリカが持っている戦艦の数より多いのに気づいていた。私はそういう海軍年鑑を持っていたからである。敗戦を確信したのはすでにその時であった。

 歴史年表を見ると、日本は明治維新後、だいたい十年に一度戦争をしていた。この戦争が終わっても、自分が何らかの戦争で死ぬ確率は高いと判断した(この見通しは当たらなかった)。せっかく生まれてきて、宇宙のことを知らずに死ぬのは実に残念だと思った。
 私は、親友が転校していった二年生から、独りで天文学と地質学と進化論と戦争の歴史の本に取り組んだ。進化論は祖父の本で、戦争の歴史は家にもあり街にも溢れていた。戦時中も創元科学叢書をはじめ、よい科学入門書が出ていた。シャンドの『地球と地質学』や山本一清『天体と宇宙』は何度読み返したろう。そこにはウェゲナーの大陸移動説も、ハッブルの宇宙膨張論も、ちゃんと説明されていた。地球の長い歴史、宇宙の気の遠くなる広さを考えると、天皇が神であるはずはなく、この戦争も宇宙の一隅で起こっている些細なことに思えた。
 私は夜空を仰いでは「蝸牛角上何をか争う」という中国の諺を思い浮かべた。しかし、こういうことは絶対に口外しなかった。日本が神の国であり、必ず勝つことを前提として社会は血を流しながら肩肘を張っていた。……
 中学に入った敗戦の翌年には、一時、失った幼年時代を取り戻すように童話を読む時期があった。切手集めもした。しかし、ある時、新聞でラテン語の独習書の広告を見た。私は収集した切手を売り払い、この本を求めた。その時から私は変わった。なぜか私は、ラテン語微分積分とが知識の世界への黄金の門だと信じていた。そして、私の求めていたのは世界の謎解きだった。基本的に謎に挑むには能力不足なことがわかっていたが、他人が作った問題でなく、小さくても自分がみつけてそれを解こうと思った。

<以下略>

 生徒に向けて「自己実現」という言葉を発した記憶はありませんが、小生も立場上学校で子どもたちを「鋳型」に合わせてきたことは否定できません。でも、自分が子どもの時にそれを嫌悪していた思いがあったので、やってもだいたいはアリバイ的というか、いい加減でした。それが逆に不愉快な生徒もいたでしょうし、阿吽の呼吸で合わせてくれた生徒もいたでしょう。たぶん、後者の生徒に救われていたように思います。
 教員の立場からは、よくも悪くも「鋳型」や「間尺」に合わない子どもたちを数多く見てきました。今みんなどうしているのだろうと思います。

 中井さんのご冥福を祈ります。








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「国葬問題」の国対ヒアリング

 昨日(8月9日)、8月5日に続く2回目の「国葬問題」に関する国対ヒアリングがありました。

 まず、「国葬」に要する費用です。これは予備費で賄うとされていますが、補正予算を組まずに予備費から出すのでは予算の使途を国会が事前にチェックできません。「国葬」は災害などによる緊急事態ではありえません。8月9日付東京新聞にこの点の指摘があります。

安倍元首相の国葬費用「国会通さず税金使うのは間違い」 予備費支出に批判の声「災害とは違う」:東京新聞 TOKYO Web

◆財政民主主義の理念に反する
 安倍氏国葬は9月27日に行われる。費用は明らかになっていないが、各国から首脳級の参列も予想され、多額を要するのは必至。政府が半額を負担した中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬(2020年)は、首相経験者の葬儀としては過去最高の約1億9000万円だった。
 税金などの詳細な使い道は、国民の代表者で構成される国会の議決に基づいて決めなければならないというのが「財政民主主義」の原則だ。一方、政府が国葬の財源に充てる方向の予備費は、憲法87条が「予見し難い予算の不足に充てる」目的で、あらかじめ使途を定めず計上することを認める予算。内閣の判断で支出し、使った場合は国会の事後承諾を得る仕組みになっている。
 ただ、制度の主眼は自然災害など急を要する事態に備えることだ。野党からは「災害対策などに予備費執行はあり得るが、国葬はわけが違う。国会が関与すべきだ」(立憲民主党泉健太代表)などと疑問の声が上がる。中曽根氏の合同葬にも同様に予備費が使われており、野党は批判していた。

臨時国会では政府の説明なし
 7月22日にあった国葬実施の閣議決定から当日までは2カ月以上あり、政府が補正予算案を編成することも可能だったとみられるが、参院選を受けた先の臨時国会は新たな参院議長らの選出だけで3日間の会期を終えた。政府による説明は閉会中審査に持ち越されたが、日程は決まっていない。
 公文書改ざんなどを含む森友学園問題に関する著書がある大川一夫弁護士は「多くの国民が反対しているのに、国会を通さず税金を使うのは財政民主主義の点でも間違っている」と主張する。……
元財務官僚で明治大の田中秀明教授(財政学)は「国葬の基準を事前に策定しなかったのは政府の怠慢であり、直ちに策定すべきだ」と強調する。

 その総額は中曽根氏の合同葬を参考に2億円弱という話ですが、おそらくそんな額では収まらないでしょう。
安倍氏国葬の費用「2億円弱が指標」と内閣府 野党ヒアリング詳報 | 毎日新聞

菊の花だけで2千万円!安倍元首相の国葬に消える血税約37億円 | 女性自身

 これは、コロナ対策やオリンピックなど、最近の政府が行う、ないし支援する施策に共通する「中抜き」事業のにおいがします。だから、国会審議を必要とする補正予算ではなく予備費なのでしょう。

 ヒアリングには、「国葬(儀)」を閣議決定だけを根拠に実施するのは、行政権の逸脱ではないかと指摘する部分もありました。動画よりかいつまんで引用します(26分過ぎより)。

国対ヒアリング「国葬問題」「旧統一教会と政府与党との関係」 - YouTube

 小西・参院議員:(「国葬儀」とは何かについて)岸田総理は7月19日にこう答えているんですが、「閣議決定を根拠として、行政が国を代表して行う」と。ここで言う「国」には国民や国会は含まれるんですか?
 富永・内閣府国葬儀事務局参事官:えー、ちょっとそこは……。
 小西:私が訊いているのは、主権者である国民と、みなさんがやろうとしている「国葬」ないし「国葬儀」との関係なんです。唯一の国民代表機関であるわれわれ国会との関係です。これを答えられないんだったら、「国葬儀」は何か、ってことが永遠に謎のままになります。それを今答えられないということ自体、岸田政権がいかに国民と国会を無視しているかという証拠です。私は内閣府の総務課長から「国というのは、当然国民や国会が含まれるとしか考えられません」と説明を受けています。であるなら、国民や国会が行う葬儀が「国葬」のはずです。にもかかわらず、内閣の判断(閣議決定)だけで、安倍氏国葬儀を行うと決めていいんですか? その法的根拠は何ですか?
 富永:それはまさに「行政の作用」として行うという認識ではないかと。
 小西:行政のあり方を決めた「内閣法」という法律があって、その1条2項ですね。「内閣は行政権の行使について、全国民を代表する議員からなる国会に対して連帯して責任を負う」とあるんですね。だから、「国葬」「国葬儀」は内閣が行う行政権の一環ですから、これを行うにあたっては、当然国会に対して責任を負うわけですね。国会を含む国家の葬儀をするのに、なぜ内閣の判断だけでそれが許されるのか、説明してもらえますか?
 富永:これは「行政の作用」として行うわけですが、国会への説明というのは、それはそれで(別途)あるものと……。
 小西:国会に対する説明ではダメで、憲法による原則というのは、法律によるんだということですね。内閣は、国会が定めた法律に基づいて行政を行わなければならない。……

 「行政の作用」――何かまた、妙な単語を持ち出してきましたが、「立法作用」や「司法作用」など、「国家の作用(権力行使?)」の一構成部分を「国家の作用」に格上げして、恣意的に行政裁量の幅を拡げ、曖昧な全能(オールマイティ)感をもたせているように思います。結局のところ、「国葬」を行う根拠は、具体的な法律ではなく、岸田首相の判断以外にはないことになります。最近の世論調査では、「安倍氏国葬」に反対する意見や疑問をもつ人は、国民の半数を超えています。世論の賛同の裏付けのないことを首相の判断で行おうというのですから、これはもはや「民主主義国家」でも「法治国家」でもなく、「人治国家」でしょう。






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なぜ8月9日長崎に原爆が……

 お盆が近づき、去年亡くなった父親の新盆見舞いで、毎日人が来宅します。8月は亡くなった人に手を合わせる時期ですが、今年は少し別格です。

 安倍氏の銃撃事件から1ヶ月が過ぎ、歴史における偶然と必然の連鎖について、ぼんやりと考えることがあります。安倍氏の死などまったく予期していなかったし、その後、知っている人は知っていたのかもしれませんが、統一教会と特に自民党議員の深刻な癒着が政局の波乱要因になるなど、微塵も予想できませんでした。かりに安倍氏が銃撃されても負傷して存命だったら、こうなっていただろうかと、このわずか1ヶ月の事態の変遷には、あらためて驚きます。

 今日8月9日、午前11:02に長崎が原爆で攻撃されてから77年目を迎えますが、なぜこの日に、アメリによって、長崎に、原爆が、投下されなければならなかったのか。そこにも偶然と必然の連鎖があると思います。
 以下は、むかし教員をしていた頃に調べたことをまとめたものです。

マンハッタン計画
 戦車、飛行機、化学兵器……。第一次世界大戦に続々と登場した新兵器は、それから20年足らずで、性能と殺傷能力を格段に向上させました。科学者たちは、兵器開発の最後の切り札が核であることを早い段階で予期していました。核兵器開発の研究にかかわった科学者にはユダヤ系の物理学者が目立ちます。そのこともあってでしょうか、あとでわかった話ですが、ナチス・ドイツは世間で言われるほどには、核兵器開発にこだわっていなかったようです。しかし、ナチス・ドイツ核兵器保有することを怖れていた亡命ユダヤ人物理学者のシラードらは、1939年、同じ亡命ユダヤ人であるアインシュタインの名を借り、アメリカ合衆国のF.ローズヴェルト大統領あてに信書を送ります。これがマンハッタン計画と呼ばれるアメリカの原爆開発のきっかけとなりました。しかし、肝心のローズヴェルト大統領は、当初はこれにあまり関心がなく、開発計画が本格的に始動したのは1942年10月以降と、だいぶ後ろにずれ込むことになります。

ヤルタ会談とその後
 1945年2月、当時ソ連の保養地だったクリミア半島のヤルタに米英ソ3国の首脳が集まり、ドイツの降伏と戦後処理、及び日本との戦争について話し合いをもちました。このとき「ドイツが降伏してから2、3ヶ月の後に、ソ連も米英とともに対日戦に加わる。その代わり、ソ連が千島・樺太などを領有することに米英は口を出さない」という内容の密約が交わされていました。実際にドイツが降伏したのは5月8日だったので、ソ連スターリンは、その3ヶ月後にあたる8月8日に日本への攻撃を開始すると、アメリカのトルーマン米大統領に伝えました(4月にローズヴェルトが亡くなっため、その後任として副大統領から昇格したのがこの人、トルーマンです。ちなみに、米国留学した人の話では、トルーマンではなく、“トゥルーマン”と発音するのがいいようです)。これは、5月末のことでした。
 そうとは知らず、敗色濃厚だった日本は、ソ連終戦の仲介をしてもらおうと、たびたびソ連に使者を送っていました。日本の電信暗号をほぼ解読していた当時のアメリカには、日本の行動は手に取るように分かっていたはずです。だから、アメリカが日本に原爆を投下した理由としてよく言われることですが、「戦争によるアメリカ兵の犠牲者をこれ以上増やしたくない」と本気で考えるのであれば、6月の時点で日本に対し、直接停戦交渉をすることもできたはずです。しかし、アメリカはそうしなかった、それはなぜなのか? 一説によれば、アメリカは原爆の開発が完了するまで停戦交渉を引き延ばしたというのです。

ポツダム会談
 7月半ば、米英ソの3国首脳は再びドイツのポツダムで会見し、日本の降伏について話し合うことになりました。ソ連スターリンより2日早くポツダムに着いたトルーマンは、7月16日、ニューメキシコ州での原爆実験の大成功を知らせる電報を受けとります。
「今朝、手術を実施。治療は未了も、経過は良好。期待以上の成果なり」。
トルーマンの返信は、
「医師及び関係者に心からお祝いを申し上げる」。
でした。
ここにアメリカは世界で初めて核保有国となったわけです。
 一方、ソ連スターリンは、最初8月8日と伝えていた対日参戦の予定日を8月15日に延期したいと言ってきました。このとき、トルーマンは「ソリに乗った」子どものようにはしゃいだと言います。できれば、ソ連が参戦する前にアメリカ単独で日本を降伏させたいと考えていたトルーマンにとって、原爆という新兵器の開発は、日本降伏の切り札を手にしたことを意味するからです。「こんなことだったら、2月のヤルタで、ソ連の領土要求を『はい、はい』と聞くんじゃなかったな」。トルーマンヤルタ会談ソ連に譲歩したことを後悔したようです。

原爆投下
 ポツダム会談では、「戦後も天皇制を存続させる」という条件さえ認めれば日本は降伏するだろうと見られていました。しかし、そうは言わず、実際に連合国が日本に伝えたのは「無条件降伏」でした。予想どおり、日本は「無条件降伏」を受け入れません。これが原爆投下の口実となったのです。
 当初、原爆投下の候補地となったのは、京都・小倉・広島・新潟の4市で、この4市への通常爆撃は禁止されていました。原爆だけでどれほどの「破壊効果」があるのかを正確に測定する必要があったからだといいます。第一候補だった京都が外れたのは、陸軍長官のスチムソンがトルーマンに進言したからだといいます。「大統領!それはいくら何でも無茶です。日本人の歴史と伝統の町・京都を原爆の餌食にしたら、戦後の日本には反米感情が噴き出るでしょう。」と(真偽のほどは分かりません)。
 結局、最初の原爆(リトルボーイ)は8月6日、午前8時15分、広島に投下されることになります。

1945年8月6日朝「経験の大きな黒い塊」 - ペンは剣よりも強く

これを知ったソ連は、8月15日と伝えていた対日参戦の予定を急に変更し、8月8日の午後(日本時間午後11時)、日本に宣戦を布告します。アメリカ側もこれに反応します。2回めの原爆投下は8月11日を予定していましたが、ソ連の参戦が早まったために2日予定を繰り上げ、8月9日午前3時50分、原爆(ファットマン)を積んだB29を、九州に向けてあわただしく発進させます。このときの攻撃目標は小倉(現在の北九州市)でした。しかし、ご承知のとおり、この日の小倉は曇っていて、上空からの視界が悪く、投下の目標地点がなかなか目視照準できませんでした。燃料切れになることをおそれて、やむなく攻撃目標を第二候補地の長崎に変更します。長崎の原爆投下時刻が11時過ぎとなったのは、この日の米軍機の逡巡の結果です。
8月9日、長崎から奪われたもの。原爆投下後の街をカラー写真で振り返る

 「天皇制の存続」というカードをチラつかせながら、日本に2つの原爆を投下したアメリカ、それに翻弄されながら「無条件降伏」を拒み続けた日本。そして、アメリカの原爆投下を知り、ドタバタと対日参戦したソ連――歴史は後からたどれば、すべてが一本の線でつながるように見えますが、その時その場面では、いくつもの選択肢やいくつもの可能性があったと思います。それは、さながら樹形図のように、幹からいくつもの枝、いくつもの葉が分かれていくかのようです。
 1945年8月15日を迎えるまでの道のりにある様々な思惑や偶然を考えながら、8月9日になぜ長崎に原爆が投下され、2度目の地獄絵が描かれなければならなかったのかと、2022年の8月9日、朝から晴れた千葉の空を見上げています。

アメリカは長崎に2つ目の原爆を落とす必要があったのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト






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