ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

ゴミ箱のロールパン

 あげるとこなくなりやめた自家菜園」(さいたま 影無さん)
 7月19日付毎日新聞の「万能川柳」の句。そうならないよう(?)週に1度くらいは「お裾分け」をしている。昨日野菜を届けたお宅のおかみさんは、数年前までは元気に自転車に乗って買い物もできたが、昨年あたりから不調続きだ。聞けば、都心の近郊に住んでいる娘さんが定期的に来て、代わりに買い物をしていたらしいが、コロナ感染が心配だから今は「来るなー!」と言っているとのこと。「オリンピックやってる間は(新型コロナの感染者は)減らないよー」と。

 昨日(7月28日)は国内の新規感染者が最多を記録した。東京都3,177人、国内9,576人。首都圏のみならず全国的に感染が広がる傾向があるのは非常に心配だ。4連休中に人が動いたことも関係しているのでは(2週間前ならオリンピック選手団や関係者の来日か…)。

 苦労人他人の苦労興味なし」(同7月23日付 平塚 中嶋さん)
ところがスガ総理大臣、政府でどんな対応策を協議したのか、国民に説明しないで逃げた。首相秘書官によれば「本日はお答えする内容がない」そうだ。一昨日は「五輪中止はありません」「人流は減ってます?」とか言ってたではないか。とうとう誰にもカンペを書いてもらえなくなったか。
菅首相、東京で最多更新の3000人感染にも「お答えする内容がない」と取材拒否:東京新聞 TOKYO Web

 何食うかの国きょう食えるかの国」(同7月28日付 白石 よねづさん)
 7月24日のTBS「報道特集」で、五輪関係者向けの弁当類が大量に廃棄されていたことを知った。
報道特集|民放公式テレビポータル「TVer(ティーバー)」 - 無料で動画見放題 ※9分10秒あたりから)
 大会の無観客開催が決まり、ボランティアなどの要員が大幅に減ったからだというのだが、それにしてもコロナで職を失い、一日一日食いつないでいる人がたくさんいるのに、何ということをするのかと最初は思った。
 ところが、弁当の発注数は当初の数(有観客の場合)から全然変更していないし、そもそも一定数は最初から廃棄する前提だったという驚愕の記事を読んだ。
 7月27日付、食品ロス問題ジャーナリストの井出留美氏の記事より。

五輪の弁当大量廃棄 発注数の変更はあったのか?JOC(日本オリンピック委員会)関係者の情報を入手した(井出留美) - 個人 - Yahoo!ニュース

内閣官房オリパラ事務局は「弁当を用意していたのは大会の組織委員会で、廃棄された数など詳細はわからない」とのこと。まるで他人ごとで、当事者意識は感じられない。お互い、同じ五輪関係者ではないのか。
5月に大会組織委員会に「人数がずれたら食材のロスを防ぐためにどう調整するのか」と質問したところ、「キャンセルできるものはキャンセルし、そうでないものは転用するなどして無駄を出さない」と答えていた。
…弁当の発注数は、有観客を想定した時から変えていないと推察される。これでお金が入る人たちは、弁当を捨てようが何しようが、会社に金が入ればいいのだろう。…

政府の対応が後手後手なのは、この件以外を見ていてもよくわかる。観客を入れるのか入れないのか、入れるなら何人にするのかなど、政府がギリギリまで判断を引き伸ばしていたため、現場の対応が遅くなってしまった。
繰り返された緊急事態宣言も、食品メーカー幹部は「もう数千万円捨てている。せめて一週間前に言ってくれれば対応できるのに、2日前に言われても急過ぎて対応できない」と、政府の対応に苦言を呈する。複数のメーカーから、数千万円規模の損失を出したと伺っている。もっと早く決断を下していれば、ここまでのロスは出さないで済んだ。
飲食業界にしても同様だ。食材は、すべてが常温保存や冷凍保存できるわけではない。そもそも生き物の命や自然界から得られているのに、そのことはまったく配慮されていない。食に関わる人々がそれにかけた労力や時間も考慮されていない。

「やきとり」さんは、
一番変更できないのは、中抜き利権を貪る権力者へのキックバックであり、そこから逆算して、弁当の発注単価も高くするし、食べるボランティアが居なくなっても、発注数量は変更せず、証拠隠滅のため廃棄することが初めから決まっていたのだ!
Tweetしている。
https://twitter.com/Cz8tgubqrKDvCmF/status/1420046153798717450

 廃棄の映像を見ていて、ゴミ箱のビニール袋にあふれるロールパンが人の頭のように見えた。

 本日7月28日の「万能川柳」より。
 競技外記録尽くめの五輪では?」(下関 畠中さん)
 「夜が更ける都庁の窓に明かりあり」(鹿沼 鹿沼土さん)
 「今年また生死を賭ける夏が来た」(桜川 今賀さん)




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「じゅんみま」と「みまじゅん」

……NDANDANDANDANDANDAND……
これは確か、民族楽器の演奏家(…という肩書きでいいのかどうか)若林忠宏さんがどこかで聞いた話として紹介していたと思うが、上のアルファベットの連なりを「読んでみてください」と言われると、三通りの読み方(区切り方)があるが、日本の人の多数派はDAN・DAN…と読み、アメリカの人はAND・AND…と読み、アフリカの人はNDA・NDA…と読む、と(「アフリカの人」というのはちょっと乱暴過ぎるくくり方だが)。そういうリズムの世界に暮らしているという話をされていた。そう言われると、DAN・DANのリズムが最も自然な感じがする自分などは、日本の「多数派」なのかと思ってしまう。
 
 一昨日オリンピックの卓球・男女混合ダブルスで優勝した日本ペア。準々決勝でドイツ・ペアに大逆転勝ちした試合をテレビでたまたま見ていたこともあり、決勝での再度の逆転は二度目の驚きだった。昨日の朝からテレビ・ニュースで二人の金メダル獲得がやや過熱気味に報道されていた。同郷でもあるようだし、話題性に富んでいると思うが、ひとつ気づいたこともある。二人の「呼称」が統一されておらず、テレビ局によってちがうのだ。
 水谷隼じゅん)選手と伊藤美誠みま)選手の名前をこの順に並べて「じゅんみま」とするのは、調べてみると、日本テレビ、フジテレビ、テレビ東京。スポーツ紙では、スポニチ、サンケイ、東スポ東京中日スポーツなど。他方、「みまじゅん」としているのは、TBS、テレビ朝日、FNNプライム。スポーツ紙では、スポーツ報知、デイリースポーツなど。そして、NHKはこの「略称」を公式上は使っていない。

 最初に引用した若林さんの話からすると、日本の多数派に受け入れられやすいリズムは「みまじゅん」だろう。しかし、報道の現状ではどちらかというと、「じゅんみま」の方が多い(今後変わっていくかもしれないが…)。しかも、ポイントだと思うのは、NHKはどっちの「略称」も採用していないこと――これは何か変だなと感じた。そして、これには理由があるように思えてきた。

 男女の順、長幼の順を当てはめて、二人を呼ぶと、「じゅんみま」が穏当になるだろう。しかし、これには日本語の自然なリズムとして違和感を覚える人が多いはずだ(「アフリカ」の人には違和感がないかもしれないが)。だったら、「みまじゅん」にすればいいのだが、そこに「男女」や「長幼」の序列意識が差し挟まると、この「自然なリズム」をすんなり受け入れられない。何でわざわざ「みま」を先にするのか、と。そう思う人にとっては、「みまじゅん」の方がよっぽど〝不自然〟なのだ。
 とはいえ、平等と多様性を建前とするオリンピック期間中だけに、この種の問題に世間はいつも以上に敏感になっている。そうでなくとも、開会まで「御難続き」だった大会である。調子に乗って他のメディアに追従して、どちらかの「呼称」を使うと、後で何らかの説明(釈明)が必要になるかもしれないし、場合によっては「めんどうな事態」になるかもしれない。そう気づいたNHKは、先回りしてこの「略称」使用を控えたのでは…。そんな気がした。しかし、ここにも軽微だが根を張る「性差」の意識や構造があるのではないか。

 個人的には、「じゅんみま」でも「みまじゅん」でも、どちらでも(どうでも)いいことだと思うが、時代はできるだけ「性差」をなくす方向で動いているのは確かだ。日本の学校では男が先・女が後の従来の名簿(名票・名表)に替わって男女混合名簿が一般化しつつあり、集会でも男女別に整列するようなことはなくなってきている。この点、スポーツ界にはむしろ「遅れ」が感じられるくらいだ。オリンピックはもちろんのこと、スポーツ界全体で、今後見直さなければならないものが、いろいろと出てくるだろうと感じる人は多い。たとえば、女性選手のユニフォームやコスチュームのこと。

ビキニ拒否の女性選手への罰金、ピンクが肩代わりを宣言「性差別にこそ罰金を」 | ハフポスト

ビキニ拒否の女子ビーチハンド代表に連盟が罰金、米歌手「連盟が性差別」 - BBCニュース

 小生も2000年代くらいから陸上競技の女性選手がヘソを出すようになったのはどうしたことかと思った。それで記録がよくなるのなら「合理性」もあるだろうが、それだったら男性選手も同じようにヘソを出さなければおかしい。先頃は、ビーチハンドボール欧州選手権では、女性選手がビキニパンツで出場しなかったところ、何と「罰金刑」に処せられた(!)。「性的対象」の視線にさらされ、撮影された写真や動画が悪用されて嫌な思いをしている選手から対処を求める声が多く上がっているのに、その誘因をルールで強制してよいはずがない。

 試合開始前に人種差別に抗議するのが許されて、性差別に抗議するのが許されない道理もない。女性からの異議が通るかどうかは男性選手が共感して動くかどうかにもかかっていると思う。男性選手もこれに黙っているべきではない。

性的視点へ抗議のユニタード ドイツ体操女子、足首まで覆う衣装 | 毎日新聞


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1940年 幻影の東京五輪との類比

 先週から始まったオリンピックは1964年の東京大会と比較されることが多い。実際、今大会の誘致に動いた人々の頭の中は、「1964年の東京大会を、もう一度」だったし、自分も何となくそう思ってきたが、時代の前後を含めれば、本当に比較すべきは、64年大会ではなく、中止になった1940年大会のような気がしてきた。
 中止になったのならともかく、事実として開幕して進行中のオリンピック大会を「まぼろし」の大会と比較してどうするのか。単に今大会を「中止」すべきという思い入れが強いだけではないか。そう言われたら、確かにそうかもしれない。今の為政者たちの無能と無責任ぶりがよく戦中と類比されるにしても、時代状況はだいぶちがうのだから(おそらく)。
 だが、1940年の「まぼろし」の大会にも蠢く国内の利権はあった(よく調べてないが…)。1933年の国際連盟脱退以降、日本は国際的な孤立の道へと突き進んでいったように言われるが、当時の政府にしても、それが得策だとは思っていないし、1936年のドイツのベルリン大会のようにオリンピックを政治利用する算段も当然あっただろう。
 とすれば、あえて「中止」を決断させたのは、すでに踏み出していた戦争に足をとられ、オリンピックに予算を回す余裕がなくなったこと。要するに「戦時経済」が最優先だったということだろう。しかし、逆に言えば、日本の政府であっても(!)オリンピックよりも優先すべきことがあれば「中止」の判断はできるということだ。2020年、優先すべきことは明らかだった。それは、2021年の今も変わっていない。「判断停止」にさせているもの、それを厳しく問わなければいけない。
 オリンピック後のことを考えても、1964年の後よりも、1940年の後の日本の姿の方が、展開上似たものになる気がする。もちろん、そんな「展開」を望んでいるわけではないが…。

 一昨日、作家の島田雅彦さんの「特別寄稿」を読んでいて、そんなことを考えた。7月25日付毎日新聞より。

五輪というダークファンタジー 島田雅彦さん特別寄稿 | 毎日新聞

 1964年の東京オリンピック開会式を見た三島由紀夫毎日新聞に寄稿し、反対論者の主張に理を認めつつ、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」と書いたが、57年後の今大会では「これをやったせいで、日本人の病気は悪化する」という正反対の事態に直面する。新型コロナウイルスの感染爆発だけでなく、政治、経済、マスメディア、市民生活を蝕(むしば)む病巣が確実に拡大し、日本は敗戦も同然の状況に陥りかねない。誰もその責任を取らないところも、先の大戦と同じだ。開催をゴリ押しした人々は、事後の惨状の責任を追及されても、全員が貝になり、口を固く閉ざすのだ。

 終戦から19年後に開催された64年東京大会は、日本が人権、民主を尊ぶ普遍的国家として国際社会に復帰したことをアピールし、戦後復興と経済成長の成果を謳(うた)いあげる祭典としての大義はあった。強引な開発による弊害もあったが、大会をさらなる発展の起爆剤にする「成長期のオリンピック」だった。それに対し、今大会は大義もなく、成長も見込めない、関係者の利権配分のためだけに実施される、時代錯誤の「終末期のオリンピック」である。

 振り返れば、今大会は誘致の段階から不正と虚偽のオンパレードだった。ロビー活動での賄賂疑惑、新国立競技場建設過程でのゴタゴタと予算膨張、エンブレム盗作疑惑、猛暑問題、組織委の予算濫費(らんぴ)、会長の女性蔑視発言、不適切な開会式演出プランや人選、国際オリンピック委員会IOC)の拝金主義とぼったくり、委託事業者による中抜きなど、オリンピックのダークサイドがこれでもかというくらい露呈した。

……逆説的意味において、歴史上、最も成功したのは36年の第11回ベルリン大会だったかもしれない。
 ナチス独裁政権下のオリンピックは、反ユダヤ主義政策や他国の侵略計画を巧みに隠蔽(いんぺい)しつつ、アメリカの商品広告の手法を駆使し、古代ギリシャナチスのイメージを結び付けるために聖火リレーという儀式を編み出し、競技を通じてアーリア人種の優位性を誇示した。露骨なオリンピックの政治利用はここから始まったわけだが、アメリカも近代オリンピックの創始者クーベルタンナチスの接待と宣伝工作に乗せられ、ボイコットの声を封殺した。その4年後には日本が「紀元二千六百年記念行事」としてベルリン大会を模倣しようとするが、日中戦争拡大により幻となる。今回も誘致段階で、安倍晋三前首相が福島原発事故の「アンダーコントロール」発言をし、「復興五輪」の建前で国際世論を欺いたが、その隠蔽手法も「ナチスに学んだ」のだろう。復興は後回しにされ、仲間内で大政翼賛への回帰を夢見る「復古五輪」にすり替えられた。菅義偉首相の「コロナに打ち勝った証し」発言も「安全安心」発言も、現実離れした妄言だったが、IOCも東京都もその妄言に便乗し、オリンピックの黒歴史を反復した。オリンピックには常にナチスの影が付きまとうので、それを払拭(ふっしょく)するための努力を怠った途端、差別や蔑視、独善の体質が透けて見える。

 今大会で噴出した諸問題のほとんどはこれまで積み重ねてきたことの結果であり、ツケである。当初予算の4倍、ロンドン大会の2倍の予算を濫費しながら、しょぼさを感じてしまうのはなぜか? 感染対策の不備、運営上の混乱、選手村のみすぼらしさを見るにつけ、予算の使途に大きな疑念を抱く。「多様性」を謳いつつ、実態が伴わないテレビコマーシャルのような開会式も、観客がいたら、バッハIOC会長の長過ぎる能書きにブーイングが起きただろう。どうやら業務の委託を受けた広告代理店や人材派遣会社による中抜き、組織委員会の破格の待遇という内輪の利益誘導システムだけは万全に機能していたようで、大損失のオリンピックでも焼け太りした人々に対する怨嗟(えんさ)の声が上がるのは間違いない。

 市民にはパンとサーカスを与えておけば大人(おとな)しくしていると施政者は思っただろうが、パンもケチられ、サーカスの損失まで負担させられるとなったら、どれほど寛容な人でも施政者を恨み、呪うだろう。もちろん、サーカスに興じるも、白けるも個々の自由だ。選手も勇気と感動なんて与えなくてもいいので、無観客の競技場で、誰のためでもなく、自分のために孤独な戦いに臨めばいい。戦場には観客はいないものだ。自宅で、病院で、職場で、商店街で、被災地で、それぞれ孤独な生存のための戦いを強いられている市民と選手の連帯はリモートでも可能である。新たに登場したスターへの熱狂によって直面する諸問題をしばし忘れてもいい。その熱狂もすぐに冷め、怒りの矛先は再び「ずるい奴(やつ)ら」、「嘘(うそ)つき」に向かう。




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